禅もお茶も博多から
博多ことはじめシリーズ?
博多ことはじめシリーズ?
聖福寺(しょうふくじ/国指定史跡)
1195年創建(鎌倉時代初期)
こんばんは。
今週のミステリーハンターはサントリー、もとい、京都フクジュエンの伊右衛尾門(いうえおもん)です。
平安時代末期から鎌倉時代にかけての日宋貿易の副産物として、宋から有形無形のさまざまなものが持ち込まれ、窓口である博多はいろんなものの発祥の地となりました(“発祥”とは物事の起こりを意味する言葉やさかい、もともと中国にあったものを持ってきただけで“発祥”と呼ぶのはいささかおこがましい気もするんですが)。
お茶もその一つで、聖福寺の開祖・栄西(「えいさい」と表記しているものもあるが、「ようさい」が正しいとお寺の執事の方が言っておられた)がお茶の実を日本に持ち帰って、背振山の石上坊(いわかみぼう)と聖福寺の境内に植えたのが日本最初のお茶の栽培と言われとります。
また、栄西は宋で禅を学んできたお人で、日本の禅(臨済宗)の祖、聖福寺は日本最初の禅寺でもあらっしゃるのです。
まあ、私ら京都の人間にとりましては、栄西といえば京都・建仁寺の開祖、宇治茶のルーツといえば、高山寺(『鳥獣人物戯画』のあるお寺)の明恵(みょうえ)が友だちの栄西からもらったお茶の実を植えた栂尾(とがお)の茶園ということになるのですが。
閑話休題、栄西というお人は残念ながら博多の人ではなく、生国と発しますところは岡山県。
延暦寺などで天台宗を学びますが、日本の天台宗は形ばかりで中身がのうなってる言うて、渡った宋で禅宗に出会い、再度の渡宋で禅を修めます。
そして帰国後の1195年(鎌倉時代初期)に時の鎌倉幕府将軍・源頼朝より博多百堂跡地を与えられて、聖福寺を創建しています。
禅宗は中国では主に唐や宋の時代に広まっていて、博多在住の宋人たちの間でもブームになっておったんでしょう。
博多百堂というのは宋人が建てた仏堂だそうで、禅関係のものやったんかどうかは分かりませんが、廃れてしまっていたその場所に禅寺ができて、宋人貿易商も大喜びやったんやないでしょうか。
ところで、頼朝が博多で土地を与えるっていうのもよく分からへんのですが、頼朝はどの程度博多と関わっていたんでしょうか?
だいたい、日本初の武家政権ができてわずか3年で武家の棟梁の庇護を受けてるというのもすごいような気がします。
京の仏教勢力の影響がありそうな朝廷はあきらめて幕府を頼みにしたのでしょうか。
とはいえ、1204年には後鳥羽上皇により「扶桑最初禅窟」(日本で最初の禅寺の意)の額を贈られていて、お上のお墨付きももらってる訳です。
なんともナゾが多いような気がしますが、たぶん、ちゃんと調べれば分かるのでしょう。
栄西自身は1200年に鎌倉に招かれ、1202年には晴れて京に建仁寺を建てています。
山門に掛かる「扶桑最初禅窟」の額(もちろんレプリカ…と聞いたと思うんだけど)。聖福寺は建仁寺ができてからは建仁寺派、江戸時代になってから福岡藩初代藩主・黒田長政の命によって妙心寺派になっていて、昨年九州国立博物館で開催された『妙心寺展』では、この額(おそらく本物)が展示されていた。 |
聖福寺は当初広大な敷地をもち、室町時代には門前町ならぬ寺内町まであったらしいですが、これまた戦国時代に荒廃し、太閤町割でほぼ現在の敷地・配置になったそうです。
蓮池あたりまであったかつての聖福寺を表す古図。家が並んでいるのは寺内町か?(大博通り沿いのまちかど博物館?より)
チャラチャチャ~
<CM>
福岡は京都に次いでお寺が多いらしいですが、観光名所としてはあまり整備されていません。
京都で有名なお寺はたいてい拝観料をとってますが、博多ではそこまでしてないので、手も回らないし経費的にも厳しいと、先の執事さんが言っておられました。
まあ、あんまり観光観光してしまうのも考えものではありますが…。
禅寺の七堂伽藍(がらん)の形式をよく残しているということで、塔頭(たっちゅう)も含めて境内全体が国の史跡に指定されている。
ちなみに伽藍とはがら~んとしているということではなく(しょもないなあ)、お寺の建物のことで、七堂というのは山門、仏殿、法堂、僧堂、庫院、東司(または西浄)、浴室が基本らしい。
また、塔頭とはお寺の子院(主に引退した住職が住むところ)のことだっちゅうの(しょもないなあ)。聖福寺にはかつては塔頭が38もあったらしいが、現在も残るのは幻住庵、虚白院、円覚寺、順心庵、節信院、広福庵の6つだけだとか。
勅使門はその名の通り勅使のための門。普通はこれよりずっと右にある総門から出入りする。 |
「扶桑最初禅窟」の額が掛かる山門は、門が閉まっていて通り抜け不可。2階部分には十八羅漢像が安置されていて、5月17日の山門供養の日だけ、一般に公開される。なお、写真手前の無染池は今年2月にリニューアルしてきれいになっています。 |
仏殿は1673年(江戸時代前期)に再建されたもので、現在工事中(写真は昨年9月のもの)。本尊の過去・現在・未来(阿弥陀・釈迦・弥勒)の丈六(背丈が一丈六尺=約4.85mという意味らしい)の三世仏は度重なる戦乱で焼かれてで阿弥陀仏の左手を残すのみとなり、代わりに小さな坐像が祀られていたのだが、2014年の栄西八百年忌に向けて復元中(仏殿も増築中)で、今のところ、阿弥陀と弥勒が出来上がっている。仏殿には源頼朝の位牌も祀られているとか。暗くて見えにくいが、江戸時代の再建の際に描かれたという天井画の『雲竜図』も圧巻。 | |
平成24年に完成した仏殿(大雄宝殿)。もちろん本尊の丈六の三世仏も揃っている。手前にある回向柱は仏殿の中の三世仏の指と「善の綱」で結ばれていて、回向柱に触れると三世仏に触れたのと同じご利益があるらしい。 |
昨年、石上坊から移植された“栄西ゆかりのお茶”の子孫。栄西は喫茶の文化を広めるために『喫茶養生記』という本を著している。 |
鐘楼。国指定重要文化財の銅鐘は高麗時代というから10~15世紀ごろの朝鮮製なんだろうが、ホームページにも「銅鐘が吊るしてあった」と過去形で書いてあるから、ひょっとしたら宝物庫に眠っているのかも。 2015.3月 追記 眠ってた。 |
後に聖福寺の住職で有名になったのが、江戸時代後期の仙さんこと僊義梵(せんがいぎぼん/は「涯」のさんずい無し)。
かの良寛さんと同時代のお坊さんで、ウィットに富んだエピソードも多く、庶民にも愛された人だとか。
書画も「○」「○△□」の記号だけみたいなものとか、女のコが「かわい~」と喜びそうなキャラとかを残していて、出光美術館にコレクションされてるほか、福岡市美術館や九州大学文学部図書室にもいくつか収蔵されています。
ここ数年、聖福寺もホームページを作るなどわりかしオープンになってきて、10月7日の仙さんの命日あたりには仙さんにちなんだイベントもやっています。
滅多に入れない方丈を見れたりもするので、チェックしといた方がええと思います。
ほなら、さよなら。
境内にある仙さんのお墓。 |
追伸
先日、前述の無染池(放生池)改修工事完成記念として行なわれたフォーラムに行ってきた。
まあ、私にとっての最大の興味は、庭云々よりも、檀家でないと滅多に入れない方丈に入れることだったのだが。
講演は改修を手がけた庭師の北山安夫氏。
建仁寺ほか京都の有名なお寺や愛・地球博などの庭も造った有名な人らしい。
講演の後はこの庭の改修の発起人(?)のJR九州会長と聖福寺の133代住職による鼎談(ていだん。2人だと対談、3人だと鼎談です)。
北山氏によると、庭というものは完成してからが肝心で、そこからどう育てていくかが大切なのだとか。
改修した庭にはちゃんと根付かずに枯れかけてるような木もあったのだけど、さてこれはどういうことでしょうという質問はいちお飲み込んでおきました。
また、禅寺によくある放生池というものは、だいたいが長方形なんだけど、聖福寺の池はどういう訳かひょうたん型で、改修に際して北山氏的には長方形に直したかったんだけど、住職のリクエストでひょうたん型のままにしたのだとか。
かつて山門が焼けた際には、山門に掛けられた「扶桑最初禅窟」の額がぽんとはずれて池に落ちて、焼失を免れたなんて話もありました。
また、禅寺の伽藍配置は山門、仏殿、方丈が一直線に並んでるのが普通なんだけど、聖福寺の場合、これが微妙にずれているのだとか。
とにかく、この直線の延長上に櫛田神社があって、太閤町割の際はこの直線が基本軸になったとのこと。
これに直交する大博通りはもともと“太博”通りで太宰府と博多を結ぶ通りだそうで、北側には唐津街道もあり、昔はこの辺りが博多の中心街だったとのでしょう。
追記
聖福寺の基本軸と太閤町割りの軸は5度ほどずれているらしい。今の博多の区画は大部分が太閤町割りが基になっているが、聖福寺の寺内町だった普賢堂あたりまでは、かつての区画をとどめているそう。
この日は自慢の庭で野点てもやっていて、池の上に舞台みたいなものも作られて、なかなか風情がありました(かなり暑かったけどね)。
聖福寺
福岡市博多区御供所町6-1
(つづく)