うどんもそばも博多から
博多ことはじめシリーズ?
承天寺(じょうてんじ)
1242年創建(鎌倉時代中期)
こんばんは。
今週のミステリーハンダー、IズミMトヤです。
遅くなって済みません。
プロレスの試合とダブルブッキングしちゃってたもんで(汗)。
よっぽどドタキャンしようかと思ったんですけど、またバッシングがひどくなりますからね(笑)。
さて、日宋貿易で活躍したのは先述の通り日本に移り住んだ宋人貿易商たちで、彼らは綱首(ごうしゅ)と呼ばれていましたが、中でも有名なのが、某大河ドラマでキンヤさん(愛川欽也ではない)が演じて一躍全国的に知られるようになった謝国明(しゃこくめい)です。
ドラマではシーサイドももちに大唐街などのオープンセットが造られ、「中世博多展」も行なわれたのでご記憶のかたも多いでしょう。
謝国明は単なる貿易商にとどまらず、博多に宋文化を伝え、貧民を救済するなど、中世博多の発展に大きく貢献し、当時の博多の人々に慕われています。
もちろん、商売のために信頼を得るためというのはあるでしょうが、それ以上の熱い気持ちを感じますね。
私も見習いたいと思います。
その謝国明が、筥崎宮所有の土地を買い上げ、聖一国師〈しょういちこくし〉を招いて創建したのが数々の“発祥”で知られる承天寺です。
聖一国師も宋で禅を学び、最初は太宰府にあった崇福寺に入ってここを禅寺とし、それから承天寺に招かれたようです。
ちなみに聖一国師は宋から帰国する際に嵐に遭い、その時に筥崎宮の八幡神にお祈りしたら助かったそうで、今でも毎年1月11日には承天寺のお坊さんが筥崎宮にお礼参りに行っています。
なぜ仏に祈らず神に祈ったのかは、神の味噌汁でしょうか。
また、「聖一国師」とは没後に花園天皇から送られた名前だそうで(いちばん偉いお坊さんみたいな意味らしい)、生前のお坊さんとしての名前は円爾(えんに)といいます。
そういう訳で承天寺、謝国明と聖一国師が宋からいろんなものをもたらしたおかげで、前述の通り、いろんなものの発祥の地とされています。
【発祥その1:うどん、そば、まんじゅう】
要するに粉モノの発祥ということでしょう。
聖一国師が宋から持ち帰ったという「水磨の図」(国宝/本山の東福寺所蔵)は、水車や石臼を使った製粉の方法が書いてあったようです。
そばはそば切り(麺)として食べられるようになったのは16~17世紀ごろからと言いますから、当初はそばがきだったんじゃないでしょうか。
謝国明は年末に貧しい人たちにそば(かゆ餅)を振る舞い、これが「運そば」、今で言う年越しそばのルーツだといわれています。
うどんは「麦切り」とあるから、当時から麺だったのかな?
弘法大師が讃岐で広めたのがうどんのルーツという説もあり、コシのある麺を楽しむさぬきうどんとやわやわでとスメ(汁)を味わう博多うどんとの天下の二大うどんの対決の歴史はここから始まったのです(そう思ってるのは福岡人だけ?)。
境内にある「饂飩蕎麦発祥之地」の碑と「御饅頭所」の碑。福岡のうどん・そばの組合では、承天寺や後述の謝国明の墓などで、うどん・そばのふるまいイベントをやっていたりする。 |
【発祥その2:山笠】
これも諸説ありますが、博多に疫病が広まった1241年、聖一国師が疫病退散を祈って施餓鬼棚(せがきだな/承天寺で見たが、ごくごくシンプルな神輿みたいなものだった)に乗って水を撒いてまわったのが博多祇園山笠の起源といわれています。
舁き山が承天寺前を回るのは、そういう由縁があるからですね。
山門の脇には「山笠発祥之地」の碑があります。
【発祥その3:博多織】
聖一国師とともに博多商人の満田弥三右衛門が宋から持ち帰った唐織の技術がルーツだと言われ、境内には与三右衛門の碑と墓があります。
何をもって博多織というのかはよく分からないので、こちらをご参照ください。
さて、CMの後は境内を見てみましょう。
チャラチャチャ~
<CM>
扁額のかかる山門。聖一国師は宋で師事した無準師範(ぶしゅんしぱん)に頼んで「勅賜承天禅寺」の文字を書いてもらったらしいので(その現物は本山の東福寺所蔵)、この額はその文字から起こしたんでしょう(たぶん)。 ちなみに山門と仏殿は第二次大戦で焼失していたが、1991年にようやく再建されたのだとか。それよりはるか前に山門がなくて「三文もない」と文無しの例えにされた時期もあったらしい。このお寺の山門はいったいいつごろなくていつごろあったのやら、よく分からん。 |
大きな仏殿。確か中はがら~んとしていたような気がする。 |
境内の真ん中にはなんと市道が通っている。これは1963年、博多駅移転に伴う区画整理で造られたもので、仏殿のエリアと本道のエリアを分断している。最近はこの市道をもとに戻そうという動きがあるらしい。 |
方丈(お坊さんの活動拠点みたいなもの)と、その前にある、福岡では珍しい枯山水の庭「洗濤庭(せんとうてい)」(写真上)。方丈を中心に、洗濤庭が海でその向こうが中国、方丈の裏側の庭(写真下)が日本を表しているらしい。普段は檀家以外入ることはできないが、博多情緒めぐりなどの際には見学可能。 |
航空写真でも見える枯山水の波目は住職自ら20kgもある箒を使って毎朝描いているのだとか。あるとき賽銭泥棒がこともあろうにこの庭を踏み荒らし、捕まって描き直しをさせられ、泣いて謝ったということがあったそう。(写真下は'07年の博多織求評会のときのももの) |
聖一国師は2年の滞在の後、京都・東福寺の開山となったため、承天寺も東福寺派ということになりました。
晩年は故郷の駿河(静岡)に戻り、宋から持ち帰った茶の実を植えて広めたことから静岡茶の始祖ともいわれています。
謝国明のその後はよく分かりませんが、墓は承天寺の1本南側の通り、御笠川寄りの飛び地(もとは地続きだったのが、明治時代に鉄道が通ってこれまた分断されてしまった。今は前述の博多駅移転で線路も移動している)にあって、墓石の脇に植えられた楠が巨大化して墓石を包んでしまったため、大楠様と呼ばれています。
枯死した古木の根元には祠のようなものがあるが、この中に墓石があるのかな? | 敷地内には謝国明関連の碑がいくつか。 |
承天寺
大きな地図で見る
福岡市博多区博多駅前1-29-9
大楠様
福岡市博多区博多駅前1-25-14(承天寺分境内)
(つづく)
←ひとつ前へ--CONTENTSへ