福岡市博物館の企画展『奴国前史~早良の青銅器と青銅器と弥生墳墓』のポスターを見て、「あれ? サワラ国って奴国になったんだっけ? 滅亡したか、日向峠を越えて伊都国になったかって思ってたけど…」ってことで、あらためて吉武高木遺跡に整備中の「やよいの風公園」に行ってみたのが5月2日(土)。
この日からひどい頭痛が始まって、翌3日(祝)はなんとか博物館の企画展を見に行ったけど、4日(休)には頭痛がひどくなって頭が上げられない上に胃も痛くなって、5日(祝)には完全に腹を下してしまい、6日(休)になって文字通りほうほうの体で百道の急患センターに行ってきたという、充実のゴールデンウィークを過ごさせていただいた(おかげで日付や曜日の感覚がすっかりなくなってしまったんで、おさらいも兼ねて曜日を入れてみた)。
んな訳で、あらためましてやよいの風公園。
弥生時代中頃のBC2~BC1世紀ごろの墳墓から鏡・玉・刀の三種の神器セットが発見されて、日本最古の王墓ではないか(いつ誰がこのセットを王の印としたのかが大いに謎なんだけど)と言われる割には、埋め戻されてそのままんまというぞんざいな扱いだった吉武高木遺跡。
ようやく史跡公園化に着手されて、去年秋にプレオープンしたんだけど、実際のところ、駐車場とトイレと看板ができただけ。
原っぱの草がなくなった分、現状ではかえって殺風景になったような気もしますな。
飯盛山のほぼ真東にある「やよいの風公園」。 写真を撮っていたら、「ご主人、ご主人」と周りに誰もいないのに口許を手で隠しながら小声で話しかけてくる怪しいおじさんあり。曰く、「実はココがヤマタイコクなんですよ」。え~、確かに三種の神器セットは見つかってるけど、魏志倭人伝の邪馬台国の記述より300年は前の話だし、そんなことはないやろーって思ってたら、伊都国の女王はアマテラスだとか(それを言うならヤマタイコクは伊都国じゃねーのか?)天皇家は渡来人だとか天皇家の系譜は全部分かってるだとか、わざわざ資料のコピーを取り出して取り留めもなくしゃべってくる(どうも常に持ち歩いているらしい)。 「いろいろ見て回りたいんで」って追っ払ったけど、何者だったんだろ?思えばこの時から僕の頭痛は始まったのかも。 | |
案内板によると、施設はまだ第1期の芝生広場と多目的広場が公開されているのみ(シロツメクサ広場と駐車場にしか見えんのだが)。第2期で「最古の王墓」「大型建物」、第3期で「甕棺ロード」などの展示や説明板を整備して、平成28年度にグランドオープンするらしい。図の王墓や大型建物の向きと飯盛山の方向が揃ってないところを見ると、サワラ国は飯盛山信仰とは別に関係ないのかも? | |
6年前に来た時とちっとも変わらない感じの吉武高木遺跡。さすがに説明板は読める程度にきれいになっていた。遺跡はこの説明板の向こうにあるもんだと思ってたけど、上の案内と照らし合わせると、王墓の場所はどうもこの説明板が立ってる道路の真下あたり?完成イメージでは道路が跨いだままになってるぞ。それでいいのか??? | |
神殿なのか王宮なのか、紀元前後の大型建物の跡。これも説明板の向こうにあったのかと思っていたら、どうも遺跡は道路の真下あたりのよう。完成イメージでは道路が跨いだままになってるぞ。それでいいのか??? | |
「甕棺ロード」が吉武大石遺跡という吉武高木遺跡とは別の遺跡だったとは知らなかった。副葬品の青銅器が実用的な武器に限られていることから、吉武高木遺跡とは違って戦闘を指揮する集団の墓地と考えられるそうな。 |
で、翌日博物館に行ってきたんだけど、“奴国前史”ってのはサワラ国が奴国の前身という訳じゃなくて、秋の特別展「新・奴国展」のプレ企画ということらしく、吉武高木遺跡以降に発見された早良地区の遺跡の紹介をやっていた。
要するに、早良地区では多くの青銅器が発見されてて、クニの中央だけでなく、辺境のクニ境から出る例も多いとか、早良地区で地産の青銅器というものはなくて、ほとんどが朝鮮半島や佐賀平野(吉野ヶ里?)や福岡平野(奴国?)で作られたのだとか。
これに対して、後発の奴国や伊都国は銅鏡や金印など中国由来の出土品が多い(もちろん、中国の文献にも登場する)。
まあ、そんなこんなから想像するに、サワラ国隆盛のBC3世紀ごろは、北部九州のクニの海外交流相手は、阿曇族の祖の呉人などの特例を除いて、基本的に朝鮮だった。
しかし、BC2世紀末ごろに衛氏朝鮮を滅ぼした漢王朝が楽浪郡を設置して以来、交流相手は中国になっていき、中国と交流を結んだ奴国・伊都国が隆盛となって、乗り遅れたサワラ国は衰退。
奴国は一時は金印をもらうほどにもなったが、倭国大乱を経て邪馬台国が盟主として名を上げるようになる。
この辺はもう一度整理しようと思うけど、今日のところはここまで。
大きな地図で見る
--CONTENTSへ--