定説というか、水稲稲作は中国江南地方で始まって、弥生時代に朝鮮半島経由で北部九州に伝えられたというのが一般的のようだけど、江南地方から直接日本に伝えられたという説もある(その一つが阿曇族ということになるのかな?)。
そんな興味もあって、福岡市埋蔵文化センターの考古学講座「コメ作りの伝来と水稲耕作文化」ってのに行ってきた。
話の中心は静岡大学の篠原先生(人文社会学)による登呂遺跡(僕らの頃は弥生文化といえば登呂遺跡の竪穴式住居と高床式倉庫って感じだったけど、最近では教科書にもでてこないらしい)の成り立ちについて。
僕が期待したものとはちょっと違ってたんだけど、先生によると、東海地方に稲作が伝わったのは東北よりも遅い弥生時代中~後期だそうで、弥生早期あるいは縄文晩期に伝わった日本最古級の稲作遺構・板付遺跡は最初からほぼ完成された稲作のスタイルだったけど、東海まで伝わる頃には
1)園耕・農耕文化複合(小規模な雑穀の畠作や水稲作)
2)本格的農耕移行期(石器を作り、集団で水田を開発経営)
3)本格的農耕定着期(鉄器が普及し生産性が向上、ムラ同士が連携)
みたい(?)な感じで段階的に普及していったらしい。
そんなことから考えるに、
・板付遺跡など北部九州に稲作が伝わったときは、大陸から稲作経験者が渡来して指導したのではないか?
・国内での稲作の伝播は陸路ではなく海路ではないのか?(陸路だったら東北より先に東海に伝わってるのでは?)
・ということは、稲作を伝えたのはやっぱり阿曇族じゃないのか?
そんなことを考えながら、帰りは久しぶりに板付遺跡に寄ってみた。
板付遺跡の復元水田は、まだ水も張ってなかった(梅雨も来てないんだから当たり前だけど)。右奥には見えるのは、環濠集落跡に復元された竪穴式住居 |
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