見出し画像

雑感録

福岡なるほどフシギ発見~番外編~ “九州最古の古墳”の実態解明!

 
九州最古の古墳ともいわれる那珂八幡古墳の削られていた前方部の発掘・試掘調査がひと段落して、全体の規模・形状がより明確になったらしい。それによると、75m(推定85mとも)といわれていた全長は86.0〜86.4m、後円部径51.5〜前方部長24.0〜24.4m、前方部前端幅32.0〜32.7m。当初「纒向型」(後円部径:前方部長=2:1)といわれていた形状は、後円部径:前方部長=8:5の北部九州に多い形だったらしい(古代人がそこまで緻密に計算して造っていたというのも驚きだけど)。














Google Map(航空写真)に説明会当日配布の資料「墳丘・周溝推定復元図」をスキャンして重ねたもの。クリックで大きな画像を見れます。
直線ではなく緩やかな円弧を描く前方部前端面(説明員(福岡市埋蔵文化財課職員)が立ってるあたりのライン)。出現期の古墳に多い特徴らしい。
前方部南側隅角には稜線の南側(側縁側)に数段の平坦面があり、上部の狭いテラスには謎の柱穴列がある。「専門家にも分からなかったんですが、この柱が何か、誰かわかりませんか?(笑)」と説明員。その下の段の狭い平坦面は「おそらく祭祀の際に通る『通路』ではないか」と言っていた(と思う)。
こちら側が前方部北側側縁。
前方部より後円部(今回の調査対象外の、主体部のある那珂八幡宮境内)
後円部(横から)。
フェンスの向こうが今回の調査対象である前方部。
後円部の南側周溝下層から出土した土器。かつて主体部から出土した三角縁神獣鏡や玉類とは別に出てきたもの。

つまり、古墳の主人は金印をもらった奴国王の子孫で、大和王権に許されて大和王権の主人(卑称呼?)の墓を模したのではなく、九州独自の形の祖型となった可能性が高いらしい。
奴国の当初の王都だった須玖岡本遺跡の後、青銅器の時代が終わって交易が盛んになった弥生時代中期頃になると、比恵・那珂遺跡のあたりが奴国の中心になってきます。前方部の周溝南側からは弥生時代終末期〜古墳時代前期の「道路」の跡も見つかっており(今回ではないかも)、古墳の主は奴国の町割を整備した人ではないかと説明の人はおっしゃってました。
ちなみに日本最古の“三種の神器”が出てきた“日本最古の王国”・サワラ王国(吉武高木遺跡のある福岡市の西エリアを僕が勝手にそう呼んでる)と奴国の関連はどうなってるのかと思ってたら、福岡市博物館の館長ブログにその答えらしきものがありました。
それによると
考古担当学芸員は、私の素人っぽい質問に即答してくれました。吉武高木は奴国の一部と考えてよろしい。ただ、西は伊都国と接しているので、奴国の中でもやや特種な位置を占めるんだそうです。
とのこと。

 大きな地図で見る
※参考文献:福岡市博物館開館25周年記念特別展「新・奴国展」図録--ふくおか創世記--

--CONTENTSへ--

ランキングに参加中。クリックして応援お願いします!

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

※ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最近の「なるほど」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事