以前、糸島の中国式山城・怡土城を取り上げたけど、先日伊都国歴史博物館の公開講座で聞いた話が面白かったので、ちょいとばかり。
講師は糸島市教育委員会文化課の瓜生(うりゅう)秀文氏。
どうでもいいけど、なんで歴史・考古学関係は「教育委員会」って聞いただけで敬遠しそうなところが管轄してんだろう。
もう少しワクワクするような名前にすればお堅いイメージもやわらぐのにねえ。
んで、まずは中国式山城と朝鮮式山城の違い。
怡土城は唐で兵学を学んだ吉備真備(きびのまきび)が造ったので中国式、大宰府の大野城は百済人が指揮したので朝鮮式、では具体的に違いが分からなかったんだけど、防塁(土塁・石塁)がタスキ状になっているのが中国式、ハチマキ状になっているのが朝鮮式なんだそう。
と言われてもやっぱりピンと来ないんだけど、図にすれば一目瞭然。
山の上の方だけをハチマキ状に防塁で囲んでいるのが朝鮮式。
中国式は山の麓まで斜め(タスキ状)に囲んでいるそうで、朝鮮式では篭城に向かないけど、中国式では防塁の中に田畑を入れられるので、長期の篭城にも耐えられるそうな。
(図は山城ならば木は伐採しているだろうと考えて黄土色に彩色しています。他意はありませんので妙な想像はしないように)
そして怡土城の築城目的。
唐の安禄山(あんろくざん)の乱の余波や、当時緊張関係が高まっていた新羅の侵攻に備えるとして大宰府防衛を考えていたけど、事態はもう少し複雑だったらしい。
白村江の戦いで日本が唐・新羅連合に破れた後、日本は朝鮮から撤退するが、今度は旧百済領を巡って唐と新羅が敵対する。
日本が唐と連合して挟撃することを恐れた新羅はやむなく日本に朝貢するようになるが(日韓親善のため、「いやいやながら」というのを強調してました)、8世紀に入ると唐と新羅の関係は修復し、日本に朝貢する必要がなくなったため、対等の関係を求めて日本と対立するようになる。
この対立がヒートアップして日本では新羅征討が計画され、怡土城もこの頃に築城されたらしい。
しかし、話はそれだけではない。
当時大宰大弐だった吉備真備は、怡土城築城に際して防人の使用を願い出て了承されている。
防人は国防用の兵力なので、築城などに使ってはいけないと定められていたとか。
いかに築城を急いでいたとはいえ、法を曲げてまで防人を使ったのには訳があるというのが話のポイントだった。
防人はそれまで東国出身者を中心に構成されていたが、それでは面倒ということか、この頃には地元九州の兵が使われていたそうな。
筑紫君磐井(つくしのきみいわい)の例にあるように、九州の人間は抵抗勢力的な要素があり、朝廷側から見れば必ずしも信用できる相手ではない。
(朝廷のルーツが九州ではなく、力で九州を支配下に収めたものだとだとすれば、なおのことだと思う)
おまけに玄界灘沿岸のいわゆる海人(あま。航海技術をもった沿岸部の人々)は歴史的に朝鮮との交流があり、いざとなると筑紫君磐井のように朝廷ではなく新羅につく恐れがある。
吉備真備と、その後を引き継いだ佐伯今毛人(さえきのいまえみし)は肥前の守も経験しており、そのことを肌で感じていた。
だからこそ九州出身者による防人を最前線に配備せずに築城に使い、一方で防人を東国出身者に戻すよう中央に奏上していたというのである。
結局、怡土城は新羅の侵入だけでなく、玄界灘沿岸の海人たちにも睨みをきかせていたんだというのが、お話のメイン。
なるほど、前に怡土城跡に行ったときに、城が博多湾側ではなく西側を向いているのが気になったんだけど、そういう訳だったんだ(どこまで裏がとれてるのかは知らないが)。
話は藤原仲麻呂と吉備真備との確執なんかもあってなかなか面白かったんだけど、ここでは割愛させていただきます。
講座の後、前回行き損ねてきた大鳥居口と呼ばれる怡土城の城門跡に行ってきた。
高祖神社登り口の石垣の上にある巨大な「怡土城址」の石碑。 |
石碑の裏は遊歩道のようなものがある。右手は急な斜面になっているので、土塁の跡かもしれない。 |
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