名護屋城跡 1591年(織豊時代末期)築城(国指定特別史跡)
秀吉さんが朝鮮出兵(文禄の役/慶長の役)の拠点とした名護屋城。
当時は大坂城に次ぐ巨大な城郭だったそうで、一度は行っとかないかんな~って思ってたんだけど、ちょうど連載の絡みで写真が必要になったので、先日ちょっくら行ってきた。
行く前に地図をチェックしてみたら、名護屋城跡のある鎮西町の半島(波戸岬と言っていいのかな?)にはGoogleマップで見ても、当時の大名の陣跡が史跡としていくつか表示されていてる。
秀吉の命令で全国160もの大名(確認されているものでもおよそ120)が兵を率いてこの地に押し寄せて陣屋を設け、朝鮮に渡った20万以上の兵を除いても人口は10万人以上に膨れ上がり、「野も山も空いたところがない」という状態だったとか。
城下には市が開かれ、能や茶会も頻繁に催されて、一時はさながら日本の首都の如しという感じだったらしい。
城の縄張り(城郭の基本設計)は黒田如水(当時はまだ官兵衛か?)が担当し、加藤清正・小西行長・黒田長政(当時の黒田家当主)らが実際の築城に当たったという。
がら~んと広い本丸跡。発掘調査が続いているのか、一部三角コーンで囲まれている。右手奥に天守台がある。 |
隅櫓のような場所にある天守台。礎石がいくつか残っている。 | |
天守台からはかすかに壱岐が見える。天気が良ければ対馬も見えるかな? 朝鮮半島はちょっと無理? |
江戸時代の天草の乱後に、一揆の立て篭りなどに使われないよう、石垣が部分的に壊されたとか。 |
名護屋城博物館にある名護屋城の模型。 |
同じく「肥前名護屋城図屏風」(複製/部分) |
同じく日本(手前)と朝鮮(奥)の軍船の模型。日本の軍船(安宅船)にはお屋敷が乗っちょるぞ! |
道の駅『桃山天下市』より見える丘全体が名護屋城跡。 この道の駅は呼子が近いのでイカが名物。奥のレストランでイカ・ウニ丼を食べていたら、韓国人と思われる団体がドヤドヤとイカの活き造りを食べに来た。 |
それにしても、国内にここまでごつい城を造るなんて、朝鮮・明が攻め込んでくることを想定していたんだろうか。
まあ、秀吉の権勢を示すシンボルではあったんだろうけど。
秀吉は神功皇后の三韓征伐(ここでは敢えて「征伐」とさせていただきます)を朝鮮出兵の大義名分としていたといわれている。
しかし、この戦争の現代の呼び名こそ「朝鮮出兵」だが、当時は「唐入り」と呼ばれていたらしく、秀吉の狙いは飽くまで明(構想としてはさらに天竺(インド)も?)。
李氏朝鮮が明の属国(朝貢国)だったことも含めて考えれば、端っから明と闘っているつもりだったのかもしれない。
開戦当初、日本軍は首都・漢城(現ソウル)や平壌を抜くなと快進撃を見せるが、これは李王朝の圧政に苦しめられていた朝鮮民衆の支持があったためともいわれているそうな。
しかし、明との国境にせまって明軍が本格的に参戦すると日本軍は劣勢に立たされ、一度は講和を結ぶが、これが秀吉に怒られないように繕ったものであることがばれて再度の出兵に(慶長の役)。
まあ、細かいことはちゃんと調べてみないと分からないので、とりあえずこのくらいにしときましょう。
なお、兵站基地となった博多の様子についてはコチラで。
ついでだけど、官兵衛連載のこともあるので、ボランティアガイドのおばちゃんに官兵衛は日本にいるときはこの城にいたのかと訊いてみたら「長政の陣屋があるので、普段はそこにいたでしょう」と言うので、いちおう長政の陣跡にも行ってみた。
民家裏の林で、なんの遺構も見当たらない黒田長政陣跡。入口に道標があるのと、それらしい場所に「黒田長政陣跡」というオレンジの旗が翻っているのみ。でも、特別史跡に指定されているぐらいだから、奥に行けばなんらかの遺構があったのかも。 |
長政陣跡より名護屋城方面。大きな建物(大望閣)の向こうが名護屋城。今は名護屋大橋で結ばれているが、間に入江があるので、登城するには不便だったんじゃないだろうか。 |
朝鮮出兵は1598年、秀吉の死によって終了。
2年後には関ヶ原ということになる。
追記
名護屋城の現地でARを利用してガイドやクイズを楽しめるスマホ/タブレットアプリ「謎解き名護屋城~秀吉からの挑戦状~」(無料)ってのが4月から公開になってます。
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