Tea* for you♪ (Tea* for Julie♪)

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松山によせて

2018-11-25 21:06:10 | JULIE 50th &古稀ツアー



友だち、Mさんのこと。(以下、彼女)

いつも、にこにこしていて、逢うとこちらまでホンワカしてしまう、そんな彼女とのこと。

最後に会ったのは音楽劇「お嬢さんお手上げだ・明治編」が高知で開催されたとき。
2015.5.30(土)、5.31(日)だった。

(土)夜に、鰹のたたきを一緒に食べた。席を用意してくれたのは、彼女だよね?。
インフォに、高知で千穐楽とあったから、人生初の高知に飛ぶことにした。
初めから東京が千穐楽と分かっていたら行かなくて、彼女に逢えなかったかもしれない。

1983.12.27大阪城ホール、福岡の友だちと一緒に大阪に初遠征した夜、
タクシーの乗車拒否に遭い、タクシー会社で一緒に並んだときに彼女と初めて逢った。
一緒に行った福岡の友だちは、家庭の事情で遠征が出来なくなり、
大阪城ホールでそのとき知り合った別の福岡の友だちと長らく御一緒した。

遠征先で彼女ともよく逢った。一緒に宴を囲んで、たくさん笑った。
2007.5、博多座で桂春団治が上演されたときに、遠征した彼女に逢った。
病気になった友だちの心配を2人でして、これから連れ出そうねと話した。
そんな彼女が、2017春からの長い闘病の末に、2018.8.28未明に亡くなった。

2017.50th、後半なら行けるだろうと思っていた9.10神戸11.12高松も彼女は行けなかった。
後から行きたくなり探していた私に高松を譲ってくれた。神戸もある方が座ってくださった。

知っている人が座ってくれて嬉しいと、彼女は言ってくれた。
「私の分もジュリーコールをお願いします」と言った彼女に、
終演後「Mさんに元気を分けてくださいと、ジュリーにお願いしました。」と返した。

2017.11.12、ちょうど高松の日に、彼女は転院先から退院して自宅に戻った。
決して良くなった訳ではなく、リハビリを終えて、長い自宅療養の始まりだった。
ときどきLINEしていた。ジュリーの情報がいいきっかけだった。
病気伺いするのは避けて、そんなたわいのないことがよかった。

古稀ツアーのインフォが先に届いた東京の方があげてくださった画像を送ると
「松山に直ぐ目がいきました❣️嬉しい❤️」と行けることが希望となった。

私も松山には絶対行こうと思い、京都の第2希望を松山にした。京都が当選したので、
松山は自己調達することになった。ちょうど彼女が余ると言って譲ってくれることになった。
チケットがなくても、彼女に逢いに行こうと思っていた。

8.24にジュリーのことで、LINEしたときには、返信があった。
「ありがとう😊 今日も○さんがきてくれて
ぜったいジュリー行こうねって!がんばらなきゃです❤️」と。

入院中も自宅療養になってからも、足繁く逢いに行っていた友だちは、その日も伺っていた。
LIVEで車椅子押してと頼まれていた。でも彼女は、行けるのかなと弱気にもなっていたそう。

8.28に送ったLINEは既読にならなくて、心配していたら、8.29に訃報が寄せられた。
8.29朝刊に訃報が掲載されていたとのこと。昼休みに友だちと電話で泣いた。
同じようにLINEが既読にならずに、心配していた矢先だったとのこと。

ジュリーから足が遠のいた福岡の友だちに訃報を伝えた。
病気を知らされてなかった友だちは、ショックを受けていた。
元気になることを祈念して、私も敢えて知らせていなかった。

澤會に頼んでいたチケットは、御主人が受け取ってくださって、
御主人から受け取った友だちが、私に渡してくれた。

松山のコンサート前に、友だちの案内で御自宅に伺った。
御主人と一人娘だった彼女の御両親が迎えてくださった。
まだ、納骨できずに、愛おしんでいらした。心から愛しされているのが分かった。

遺影は50歳の誕生日に入籍したときのキラキラした彼女だった。
趣味のお仲間からのパネルや、御葬儀用に御主人が編集されたビデオを拝見して
とても、幸せな人生だったんだなと思った。それを伝えたら、御家族は泣いてらした。

亡くなった朝には見つけられなかったので、ビデオには入れられず申し訳なかったと、
定期入れに入ったハワイでのジュリーとのツーショット写真2枚を見せてくださった。
1981年と1982年の彼女とジュリーだった。
入籍後も、御主人はジュリーに行くように言ってくださっていたけれど、
途中から彼女の実家に同居するようになって、お父様が御主人に気を遣って
あまり行かないように仰って、回数がぐっと減っていた。
御主人は、「私は行っていいよと言っていたんですけどね」と仰っていた。

御主人に、彼女が好きだったジュリーのコンサートを見てさしあげてと伝えたが、
最後だがら、気にせずに、思いっきりはしゃいでほしいからと言って
私なりに考えてと、お越しにならなかった。
二階席の予定だった趣味のお仲間が彼女の席に座った。
その隣には趣味の先生が座られ、彼女の席を囲んで反対側に私が座った。

ジュリーが歌い出した途端、来たかったよね、来てるよねと思うと涙が流れだした。
溢れた涙は止まらなくなり、♪雨だれの挽歌まで、号泣していた。
隣からも啜り上げる音がしていた。

彼女は楽しみにしていたんだから、楽しまなくちゃと思い、涙を飲み込んだ。
会場は開演前から拍手が素晴らしく、ジュリーも楽しそうで、盛り上がった。
彼女の趣味のお仲間さんたちは、初めてなのに、振りまで見様見真似でされていた。
最後には「ジュリー」と大きな声で叫んでらした。
彼女の代わりに楽しもうと思っていたとのことだった。

私の2列前で、彼女の遺影を託された友だちが、胸から提げていた。
だけど、開始早々写真が飛び出してしまい、
横にいた別の友だちが、「楽しくて飛び出したのよ」と言ったそうだ。
ホントにそうだったと思う。とても盛り上がって、彼女も楽しかったと思う。

夜、彼女の遺影を囲んで献杯した。私が撮影した後に、向きを変えようとして
私が一杯倒して零してしまった。彼女が早く飲みたかったんだねと誰ともなく言った。

翌日、友だちに松山城に案内してもらった。雲一つない快晴だった。
清々しい彼女に相応しい青空だった。
どこまでも青く澄み渡る空を見ながら、彼女の思い出を語った。

松山から福岡への上空で、空から光が降り注いでいるのが見えた。
それまで外を見ていなかったのに、外を見た途端だった。
私のツイを見た友だちが、「Mさんが天上に昇っていった」と泣いた。
ジュリコンを終えて、安心して天に導かれたのかもしれないと思った。

Mさん、1983.12.27から35年ほど、お友だちでいてくれてありがとう。
地元のお友だちは、もっと長いよね。
誰からも好かれる素敵な友だちだった。
これからも、会場で逢おうね。合掌。

1959.6.14~2018.8.28生き抜いたMさんへ。
書き記すことしか出来ないTea*より、愛をこめて。



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