つらつら日暮らし

釈尊の神通について(拝啓 平田篤胤先生19)

前回の記事は、「釈尊の苦行について」と題して、江戸時代後期の国学者・平田篤胤(1776~1843)が釈尊の苦行をどのように評していたかを見た。そこで、今回はその続きではあるのだが、「苦行」の話が「神通」に接続されているので、見ておきたい。

 さて悉多は早く婆羅門らが説を看破りてあるに、坐禅観想に身を苦めたはいかにと云に、まづ彼念ひ極たる生老病死を解脱し、かつ神道を大きに修し得て、夫を以て婆羅門どもを伏させんが為にごらず。
 それはすなはち大論に、若不行苦行而呵言非道者無人信受以自行苦行過於余人と見へ、又西遊記にも、太子思惟至理為伏苦行外道節麻米以支身六年とあるは此事でござる。
 さやうに外道を伏させんとするはいかにといふに、かの外道の輩は国人に普く信じられておる者故、まづ其外道から伏させて道を説かねば弘まらぬからのことでござる。
 またそれを伏さするに神道を以てするはいかにといふに、それも神道といへば大そうに聞ゆれども、先にも申したる如く実は幻術といふもので、その幻術といふはかの円覚経の疏に、諸経教幻偏多、良以五天此術頗衆、見聞既審法理易明とありて、五天竺ともにこの幻術が頗る多きことで、衆人見なれ聞なれておること故、この術を行てその奇怪に目を驚かし心を惑はして説つけると、人が信を発してよく会得する故、これで人をさとしたものじやといふの義で、釈迦より前に出たる婆羅門どもが皆是を以て人を服させたものでござる。
 故に釈迦もこれを専にやらんでは、その道が行はれぬによりて六年の修行にこれを第一と修行したものでござる。
 それはすなはちかの龍樹菩薩が著したる大論にも、鳥無翅、不能高翔、菩薩無神通、不能随意教化衆生とある。この文を考へて釈迦法師が神通を行つたる故をしるがよいでござる。
    『平田先生講説 出定笑語(外三篇)』44~45頁、漢字などは現在通用のものに改める


このように、篤胤は釈尊の神通について、幻術だとして評しているのだが、その典拠となったのは富永仲基『出定後語』巻上「神通 第八」であることは明らかであろう。それは、上記の一節で、篤胤は『大智度論』を2箇所(巻24・94)引いているが、これは、富永が引用した文章と強い関連性がある。なお、『大唐西域記』(巻7)についても『出定後語』巻下「外道 第二十二」に見られる一節であるから、ここに来て篤胤が、富永の見解を引きつつ、自らの仏教批判に利用した構図が見えてくるのである。

ところで、ここで篤胤が述べているのは、釈尊が神通を用いたのは、第二義的だということである。つまり、それまでにインドで勢力を持っていた婆羅門達に、自らの教えを納得させる手段として、神通を用いたとしているのである。しかも、釈尊による6年間の禅定修行は、この神通を得るためだったとしている。

そこで、その典拠として、『大智度論』などを用いているのだが、どうも、外れている気がする。確かに、『大智度論』巻94からの引用であれば、菩薩が神通を用いなければ、意のままに衆生を教化出来ない、という話だが、それは釈尊の修行が、神通を得るためだった、という話にはならない。よって、これはおそらく、篤胤が釈尊による神通を批判するために、修行の目的をねじ曲げた可能性が高い。

多くの文献を引いて論証しているように見えて、実は虚偽を述べているというあたり、篤胤は恐ろしい人である。

それから、何故、神通を批判するかというと、おそらくは篤胤と同時代に、神通力に基づいた仏教の伝承が日本の各地に存在し、しかも、観光地的な流行を見せていたためである。その辺は、また、次の記事で見ておきたいと思う。

【参考文献】
・鷲尾順敬編『平田先生講説 出定笑語(外三篇)』(東方書院・日本思想闘諍史料、昭和5[1930]年)
・宝松岩雄編『平田翁講演集』(法文館書店、大正2[1913]年)
・平田篤胤講演『出定笑語(本編4冊・附録3冊)』版本・刊記無し

この記事を評価して下さった方は、にほんブログ村 哲学ブログ 仏教へにほんブログ村 仏教を1日1回押していただければ幸いです(反応が無い方は[Ctrl]キーを押しながら再度押していただければ幸いです)。
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

※ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最近の「仏教・禅宗・曹洞宗」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事