これは、従来の拙ブログでは一度も採り上げたことは無かったように思うのだが、明治時代に曹洞宗で活躍された学僧・来馬琢道老師(1877~1964)という方がおられ、以下の書籍が知られている。
・『一仏教徒の体験せる関東大震火災』鴻盟社・大正14年
なお、現在は国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧可能であるため、リンクを貼っておいた。興味のある方は、ご参照願いたい。
まず、本書は「大震災のその時」とあって、震災の瞬間から記述が始まる。
大正十二年九月一日は例年に比して少しく暑過ぎる日であつた。〈中略〉第一の法事が終つて一旦休憩し第二の法事の為めに本堂に進み正面に立つて線香を拈じ、今月今日○○○○居士七回忌の辰に相逢ふ、といふと、ぐらぐらと正面の来迎柱が動いた。その動き方が下から持上るやうに感じた。頭の上の天蓋が非常に強く動いた。之は大地震だ、何うなるか解らん、庭に出るのが一番安全だと思つたから……
前掲同著、1頁
先ほども述べたが、ちょうど正午少し前に地震が発生しているが、上記の通り、この日二件の法事があった浅草萬隆寺では、その二件目が始まった直後に、この地震に逢ったわけである。もちろん、最初はただの揺れのみであったから、来馬老師もまだ余裕で構えていた様子であり、当時の浅草に存在していた「十二階」への言及が見られる。
眼を上げて十二階を見ると、十階までは壊れながらも立つてゐるが煉瓦が大分崩れてゐる。十一階と十二階の木造の頭は十階の中へ崩れ込んで、八方へ簪を出したやうに醜態を見せてゐる。その瞬間にこの十二階は曾て伊太利人が設計したと聞いたが、この大震災に逢つてもぐづぐづに崩れないで頭の方だけ痛んだ位で止つたのは、やはり相当に工事に注意したものであらうと感心した。十二階はしばらく前から福助足袋の大きな広告を付けたが、若しあの重いものが付かなかつたら或は之程の災害に逢はなかつたかも知れない。
前掲同著、2頁
この「十二階」とは、「浅草凌雲閣」のことで、明治23年に浅草公園に建てられた12階建ての展望塔であった。なお、来馬老師は「伊太利人」が立てたと仰っているが、どうやらイギリス人だったらしい。おそらくは記憶違いであろう。それから、この「福助足袋の看板」については、景観も含めて評判が良くなかったらしい。ただし、この看板のおかげで、塔から落ちずに助かった人がいたというから、中々不思議な話である。
ところで、来馬老師が少し落ち着いたのも束の間、事態は一気に悪化した。それは火災の襲来である。萬隆寺の境内に住んでいた画家から、「十二階」の麓から火が出たことを告げられた来馬老師は早速に対応を模索した。
電話口へ人を走らせてみたが交換手がゐないので電話は通じない。火災報知器が千束町に出来たからボタンを押したら直ぐポンプが来るらうといつて人を飛ばしてみたが何の手答もない。〈中略〉妻が何か持出す準備をしてゐる。納所の尽力で本尊様は表庭も取出されて地の上に坐つておいでになる。過去帳も出た、法衣も五六枚か七八枚は持出した。その次は毛布それから檀家帳といふ順序でだんだん運び出され、金庫は妻によつて開かれ、重要書類は持出されることになつたが、その時初めて書斎を見ると二十年かかつて、追々と、工夫した書棚は皆顛覆して書斎の中へは足を踏み込むことも出来ない。若し焼けた時にはどうしよううか、うろうろ見廻してみたが、原稿も大切、書籍も大切、写真機、タイプライター、万年筆、皆相当の価格のあるもの、写真も大切、どれを取つていゝかと考へてゐる中に火は門前に廻つて来た。それでもまだ燃えるものと信ずることは出来ない。
前掲同著、3頁
こちらは、「火事はじまる」という項目だが、まさに逃げられない火事に遭った時の人の実感は、このようなものだと思う。様々な資料などをどうするか、考えがまとまらない間に、火災が来るというのは、本当にその通りだったのだろう。なお、ここで来馬老師が判断を迷っておられる間に火はお寺に近付いてきて、次の項目は「噫、万事休す」なのである。最後まで、何とかお寺を保たせようとした来馬老師だったが、明らかに火が迫っているのを見ると、「大分火が迫つて来たから、もはや危ないと思つて、亜米利加から持つて来た小さい鞄の中に欧羅巴紀行の原稿だけを入れて、玄関から逃げ出し……」(前掲同著、4頁)とされる通り、持ち出せたものは、極めて少なかったらしい。
しかし、その後、来馬老師はとても冷静だった。火の様子を見ながら避難先を考えられていて、まず上野方面は最初に諦め、続いて、千束町方面も諦め、結果、「南」に逃げ、浅草寺の浅草公園に辿り着き、「仏教青年伝道会堂」に入られた。そして、当日の風向きの関係もあったのだが、浅草全体で96%が焼失したとされるのに、浅草公園は被災を免れたのである。つまり、来馬老師は助かったのだが、本当に僅かな判断ミスで危険な状況に陥った可能性もあったので、ここは本当に冷静な避難だったものと拝察する次第である。浅草公園については、以下のページを参照した。
・関東大震災のちょっといい話/7万人の命を救った浅草公園の人々(防災システム研究所)
なお、萬隆寺自体は延焼を免れることが出来ず、全焼であったという。本書の末尾は、その再建に向けたご尽力の様子を記録している。関東大震災復興の一様相を知ることが出来よう。ところで、この記事の締め括りとして、とても気になった一節を紹介したい。
その中に後の方から青年団員とかいふ人が大きな声で叫んでいふには「只今朝鮮人の一団がこの方面に向つて進撃して来るさうでありますから、我々も極力防戦する決心で居ります。諸君は何うか、この会堂を出て庭の方にゐて万一の用心をして下さい」と、可なり凄い言葉であつた。
前掲同著、12頁
以上は「朝鮮人来襲の声」という一節なのだが、結果としてこれはデマであった。来馬老師は、その会堂より他に逃げる場所も無く、また非常に疲れていた御様子だったためか、このデマを信じられることは無く、そのまま会堂に留まったという。この一事については、続報も書かれておらず、あくまでもデマを流していた「青年団員」の様子を書くに留まっている。しかし、地震から火災、そして、その間に全財産を失った人も多かったであろう混乱時に、こういったデマが流れたというのは、ただただ被災者の不安を煽ったものと思う次第である。当然に許されることでは無く、今後も、被災時のデマの発生、拡散には余程注意すべきであろうと思う。
なお、拙僧的にはこういった抄出の記事ではなく、やはり来馬老師の著作を全て読んでいただくのが、関東大震災の被災者の記憶と記録を受け継ぐことになると思う。改めて、この震災で亡くなった人々へ心から哀悼の意を表するものである。
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