つらつら日暮らし

今日は高祖降誕会(道元禅師の御誕生日)

今日1月26日は曹洞宗で「高祖降誕会」である。つまり、大本山永平寺を開かれた道元禅師の御誕生日に当たる。江戸時代には正治2年(1200)1月2日に誕生日を定め(面山瑞方禅師『訂補建撕記』など)、更に新暦への転換に合わせて日を動かしたのが、明治33年(1900)のこと(ちょうど、道元禅師御生誕700年)となっている。

さて、毎年この日には、道元禅師生誕に関する記事をアップするようにしており、だいたい新しい学説に従い、色々と考えてきたが、今日は敢えて、江戸時代に構築された道元禅師伝を見ていこうと思う。

土御門院(人王八十三代)正治二年(庚申)正月二日に道元和尚誕生す。洛陽の人、源氏。村上天皇九代の苗裔。后中書王八世の遺胤なり。
    『訂補建撕記』、一部表現を改める


分かりやすくするために、一部の漢字を訓読し、またカナをかなにするなどした。この段階で既に、「正月二日」という話が来ているが、従来の古写本『建撕記』には見えない(面山禅師は、大本山永平寺35世・版橈晃全禅師[1627~1693]が貞享2年[1685]に著した『僧譜冠字韻類』巻88の道元禅師伝を参照したと考えられる)。ところで、これを見て改めて思うのが、道元禅師は「申年の人」だったということである。申年の人は、以下のような印象があるらしい。

口が達者で行動力もあり、才気に溢れている・・・豊臣秀吉みたいな人?

道元禅師の御性格について、以上のような評が合っているかどうかは、読者諸賢のご判断に任せたい・・・ところで、道元禅師がお生まれになった状況について、先の面山禅師は次のように註記している。

高祖は、久我の内大臣通親公の子にして、母は九條の摂政基房公の娘なり。〈中略〉『永平録』の亡父の追薦に源亜相忌上堂とあり。亜相は大納言の唐名なれば、父は定て大納言なり。通親は内大臣なれば、祖師の父にあらずと云へり。これは『永平録標指鈔』の一巻に云く、「或家伝譜、師、内大臣通親の孫、堀川大納言〈通親長男〉通具の三男」とあり。この説を正と思へるならん。爾れども誤なり。余、考ふるに、師三歳の時、通親薨し玉ふ。通光は十四歳なれば、長兄通具の養育せられし由て、その子と謂しなるべし。三歳より養育にて、劬労の恩は通親よりも重きゆへに、冥福追薦の上堂も度々せられけるにや。
    同上

結局面山禅師は、「通親」説を採用したかったのである。根拠としては(ここでは挙げないが)、当時の久我家から出してもらった系譜(道正菴にあった)に通親の子供として書かれていたことなどがあったという。ただ、この系譜には残念ながら根拠と成り得るだけの価値はなく(当時は、あったかも知れないが)、しかも、面山師は「道元禅師の父親が三歳に亡くなった」という説にも固執するが、この固執も、果たして伝記文献から出て来たのか?それともこの系譜から出て来たのか?良く分からないところである(古伝で、父の死を伝えるものは1本も無い)。

要するに、一点間違ったがために、それに合わせて周囲をかなり大胆に作り替えた可能性がある。古伝では、瑩山禅師『伝光録』「第五十一祖章」や、古写本『建撕記』などでは、4歳の時に父親(慈父閣下とある)に詩を献じた話が出ていたり、出家したくて比叡山に行った13歳の時には、応対した良顕法眼(面山禅師は「良観」とする)が、「いきなり出家すると、親父が怒るよ(意訳)」とかいっているため、もちろん、実父は生きていたと考えるのが妥当である。

その点から考えると、もちろん、「通親」が実父である可能性は皆無となる。

ただ、以上のような面山禅師の見解の影響は大きく、明治時代、近代の曹洞宗で作られた道元禅師伝はだいたい、そのような人物相関図で以て構築されている。ただ、流石に令和の世では別の伝記が採用されている。まぁ、父が通親であったりすると、木曾義仲の問題とか、伊子の問題だとかが組み合わせられるので、物語的には良いのかもしれないが、でも、祖師が必ず物語の主人公に成り得るわけではない。何の「奇特事」が無くても祖師である。よって、我々も劇的な人生を期待するのでは無くて、何の面白みも無いかもしれないけれども、それを日常底として淡々と生きることが肝心だといえるだろう。

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