つらつら日暮らし

『彼岸之弁』参究2(令和5年度・秋の彼岸会)

今日は秋の彼岸会2日目である。早速ではあるが、彼岸会について検討したいと思っている。

ところで、昨日から紹介している『志妄想分別集』という写本なのだが、一文字目について「想」ではないか?とのご指摘をいただいた。確かに、単独で見れば「志」よりも「想」に近い気もするが、3文字目の「想」とは明らかに形が違う。とっても悩ましい・・・もし、『想妄想分別集』であれば、「妄想分別を想う」と訓ずることが出来ると思う。

そこで、全5回の内、2回目として『彼岸之弁』を検討していきたい。

 両経中には彼岸と云事を天正とも説てあり。如何となれば、天正樹と云木によりて人の善悪を知る故ひなり。
 又た、時正とも説てあり、其の訳如何となれば、時正文字はときただしし書なり。此の意にて春秋彼岸のころは、昼と夜とちゃうと等分にして、時の長短なく、又、寒むからず、暑つからづ、仏行を勤めやすき時なれば、諸の衆生懈怠の者、夏は炎熱に苦み、すいまにをかされ、修行もならず。冬は寒苦に堪へず、又、貧しきともがらは、衣食住のいとなみに暇なければ、設ひ志しは深くとも心にまかせず。之に依て、春秋二季の暑寒のあわい、万民困安の時節を見合定め玉いしわ、老若貴賎共に悉く一人ももらさず救ひ玉はん為なり。
    『志妄想分別集』1丁裏、カナをかなにし、漢字も現在通用のものに改めるなど見やすくしている


これは、彼岸の修行が、何故この期間に定められたのか、ということである。やはり衆生に寄り添った見解となっており、季節として、暑すぎたり寒すぎたりすると修行が進まないので、季節の良いこの彼岸に修行をさせるようにした、という見解なのである。そして、拙僧的に思うのは、経済的な困窮に陥っている人もまた、この良い季節であれば暑さ・寒さを思うことなく修行出来、一人も漏らさず救うための教えだとしているところに、極大乗の真意を感じるところである。

 扨、天竺にては天正樹に花の咲くを見て、春の彼岸と定め、又、実を結ひを見ては、秋の彼岸と定め、此の時にをいて三界の諸天善神も、人界及び天上、冥官諸神も悉く皆な、此の木のもといあつまり玉ひは、神に勅して善性と悪性と無記性と云ふ三巻の帳をつくり、此の帳は金銀鉄の三帖の次第あり。勧善懲悪のみに非ず、深意あり。後に弁ず。
 彼の天正樹は高さ五百由旬横にはびこること五百由旬にして此の樹に娑婆の人の数づ程花も咲き実もなると有り。
 又、善根功徳を修する人にあたる花は、甚だ鮮やかに開き匂も勝れぬ(?)。悪業而已造る人にあたる花はいかにも花の輪も少く、常にしぼみ、匂もけがれ、色も悪しくと説玉へて有り。
    同上・1丁裏~2丁表、同上


これは、「天正」という言葉についての紹介であるが、「天正樹」という樹だという話である。この樹については、およそ漢訳仏典には見られないものであり、上記内容についても典拠は不明であるといえる。強いていえば、「五百由旬の大きさの樹」というのは、仏典では珍しい表現では無い。だいたい1由旬は11~14㎞程度とされるので、500由旬であれば5500~7000㎞くらいである。まさに、地球そのものを覆うほどの大きさであるといえる。なお、この天正樹の根元には、「冥官・諸神」が集まってきて、「金・銀・鉄」の三帖の帳面を作るというが、その中には「善・悪・無記」と書かれるとあるから、まさにこれは「閻魔帳」そのものである。

更に、善根を修行する人には、香りや色も素晴らしい花を咲かせてくれるが、悪業を造作する人には花は萎み、匂いも色も悪いというのである。

これらは、いわば「あの世とこの世」を繋ぐ世界観の発露である。考え出したのは日本人であると思われるが、「閻魔帳」の記載の仕方などは、かなり生々しいものもある。それはまた、明日以降の記事で見ていきたい。

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