つらつら日暮らし

7月17日 天童如浄禅師忌

今日は、旧暦の7月17日を命日とする天童如浄禅師(1162~1227)のことを採り上げてみたい。

ところで、道元禅師伝に詳しい方々については、如浄禅師の説明は、もはや不要であろうと思います。一応、【如浄―つらつら日暮らしWiki】なんていう項目もあるので、興味のある方はご覧いただきたい。

さて、今日見ていくのは道元禅師が、本師である天童如浄禅師のために行った追悼の上堂である。永平寺に入られてからはほぼ毎年行われている追悼の上堂であり、年回法要とは関係なく、いわゆる「毎歳忌」扱いになる。今年のは、整合的ではない順番で入っている上堂なので、具体的な年号は分からない(一応、推定されてはいる)。

寛元4年(1246) 巻2-184上堂
宝治元年(1247) 巻3-249上堂
宝治2年(1248) 巻4-274上堂
不詳       巻4-276上堂
建長元年(1249) 巻4-342上堂
建長2年(1250) 巻5-384上堂
建長4年(1252) 巻7-515上堂


今年は、道元禅師が最後に行った如浄禅師忌の上堂を見ていきたい。

 天童忌の上堂に、云く。
 先師、今日、忽ちに行脚す、趯倒す従来生死の関。
 雲惨み風悲しみ渓水溌す、稚児に恋慕して尊顔を覓む。
 這箇は是れ遷化円寂底の句。永平門下、知恩報恩底の句、又た作麼生か道わん。
 良久して云く、恩を恋うる年月雲何ぞ綻びん、涙、衲衣を染めて紅にして斑ならず、と。
    『永平広録』巻7-515上堂


これは、建長4年(1252)の7月17日に行われた上堂であると推定されている。もう、この次の年には、道元禅師の病は重かったと思われ、既に、永平寺の住持も法嗣である懐弉禅師にお譲りになっているため、この上堂が最後の天童忌上堂となる。内容は、道元禅師御自身が、「遷化円寂底の句」「知恩報恩底の句」と分けているように、2つの内容からなる。前半は、如浄禅師が遷化し円寂に至った様子を示すもので、遷化とはまさに化を振るう場所を、今世から当世へと遷したことを意味するが、それを一言で「忽ちに行脚す」と表現されている。そして、従来の生死の隔たり(=関)を打ち倒したのだともされる。

如浄禅師が遷化されてしまったので、雲も風も、渓の水も皆弔意を表し、道元禅師御自身も、稚児の顔に、如浄禅師のお顔を求めているとされた。

その悲しみの上に、「知恩報恩」は成り立つ。そこで、それをいわれるのが、「如浄禅師の恩を恋い慕う年月は綻びることがないけれども、私が師を思って流す涙は、この袈裟を染めて、全て紅となり、斑の部分が無くなるほどだ」とされる。この涙とは血涙だったのかもしれない。また、泣いて涙が衣服に着けば、そこだけ斑点になる。ところが、斑点が無くなるほどだったということは、その涙の量が膨大で、衣服全てを涙で濡らしたことになる。

つまり、それほどの働きが及ぶほどに、つまりは、御袈裟全てが悲しみを表すほどに、道元禅師は如浄禅師から仏法を相続したことへの恩義を感じているということになる。紅一色、この「一色」とは、まさに「一色の弁道」をも意味していると解釈できよう。そのような私心無き弁道こそが、不染汚の修証こそが、「一色の弁道」なのである。道元禅師は、その境涯、行持にまで至るよう、弟子達に促したといえよう。

なお、余談ながら、この天童忌上堂の前には「解夏」が行われ、安居が説かれた。しかし、それで修行が終わりでは無い。天童忌上堂の次には、龍樹祖師の言葉を引いて、「仏祖相伝の坐禅」を説き示し、さらにその次には「三時業」について述べており、その両方ともに、正しき修行へと促す内容であり、その呼び水として、この天童忌上堂があるとも理解出来る。

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