それで、万仭禅師は『禅戒本義』に「嵩嶽元圭禅師戒文」を収録したのだが、これは先に挙げた『景徳伝灯録』を初め、『聯灯会要』巻3・『五灯会元』巻2などの「嵩嶽元珪禅師章」にも見え、見ることは全く難しくない。おそらく、中国禅宗では良く知られた話だ。なお、万仭禅師は『釈氏稽古略』巻3に「嶽神乞戒」として収録されているものを「戒文」と表記していると思われる。
詳しくは、以下のような話である。
師、因みに嶽神稽首して曰く、我れも亦た余神より聡明正直なり。你知る、師に広大の智弁有ることを。願くは授くるに正戒を以てしたまえ。我をして世を度せしめよ。
師曰く、汝、既に戒を乞う、即ち既に戒なり。所以は何となれば、戒外に戒無し。又た何ぞ戒あらんや。
神曰く、此は理なり。我、聞て茫昧なり、止だ師の戒を求む。我が身、門弟子と為らん。
師、即ち為に座を張り、炉を秉き几を正して曰く、汝に五戒を付す。若し能く奉持せば即ち応じて「能」と曰え、能わざれば即ち「否」と曰え。
神曰く、謹んで教を受く。
師曰く、汝、不婬を能せんや。
曰く、我れ亦た娶れるなり。
師曰く、此れを謂うにあらざるなり。羅欲無きを謂うなり。
曰く、能。
師曰く、汝、不盗を能せんや。
曰く、何の我に乏かあらん、焉ぞ盗み取ること有らんや。
師曰く、此れを謂うにはあらざるなり。饗すれば淫に福し、供せざれば善に禍するを謂うなり。
曰く、能。
師曰く、汝、不殺を能せんや。
曰く、実に其の柄を司る、焉ぞ不殺と曰んと。
師曰く、此れを謂うにはあらざるなり。濫誤疑混有ることを謂うなり。
曰く、能。
師曰く、汝、不妄を能せんや。
曰く、我れ正直なり、焉ぞ妄有らんや。
師曰く、此れを謂うにはあらざるなり。先後、天心に合わざらんことを謂うなり。
曰く、能。
師曰く、汝、酒に敗られるに遭わざらんや。
曰く、能。
師曰く、如上、此れを仏戒と為すなり。
師、又た曰く、奉持に有心なるを以て、拘執に無心なれ。物の為に有心なるを以て、心想無し、身、能く是の如くなれば、則ち天地に先んじて生ずるも精と為さず、天地に後れて死すれども、老大と為さざるなり。
万仭禅師『禅戒本義』3丁表~裏、原典に従って訓読、漢字などは現在通用の表記に改めた
詳細に見てみると、中国の漢籍仏典の場合は、ほぼ同じ文章のようである。『禅戒本義』については、それら中国の文献と比べて、多少の字句の違いがある程度であった。それで、万仭禅師が本書でこの一節を引いた理由については、次回以降も見ていくけれども、禅戒(菩薩戒)があらゆる存在に授けられるべきもので、人以外も対象となることを示したようである。上記の場合は神である。
そこで、上記の内容で面白いのは以下の2点である。
①授ける際の経緯
②五戒の解釈
まず、①については、嶽神が元珪禅師に対し、自分は聡明・正直であるから、是非戒を授けて欲しいと願ったわけである。しかし、元珪禅師は一度断っており、嶽神が受戒を希望したこと、それ自体が既に戒だから十分だという言い方をしている。しかし、嶽神はその見解は理としての戒であり、実際に受けることを願うと申し出たので、元珪禅師は神のために座を設けて五戒を授けようとした。
それで②となる。五戒については、いわゆる「在家五戒」であるが、元珪禅師は神に対して、それぞれについて持てるかどうかを答えるように求めた。その際、神との遣り取りが面白いのである。
なお、通常用いられる在家五戒の順番ではなくて、先に「不婬戒」から尋ねている。しかし、嶽神は「自分は結婚している」と答えると、元珪禅師は「その意味ではない。羅欲(網のように連なった強い欲のこと)が無いことをいう」と教えると、神は「持てる」と答えた。同じように、「不盗戒」についても尋ねると、嶽神は「私は経済的に貧しくはない。どうして盗みなどしようか」と答えた。しかし、元珪禅師は「その意味ではない。そなたに対して供物を供じた者へ弁えずに福を与えたり、逆に供養しなければ善人にも禍をなすことだ」というと、また、嶽神は「持てる」と答えた。
「不殺戒」について、嶽神は「私が人の生死を司っている。どうして、不殺でいれようか」と答えると、元珪禅師は「その意味ではない。生死を判断する際に、混乱しないことだ」と教えた。嶽神は「持てる」と答えた。また、「不妄戒」について嶽神は「私は正直だ。妄語などしない」と述べたが、元珪禅師は「言葉について、天の心に契わないことをいうことだ」と教えたが、嶽神は「持てる」と答えた。
最後、「不酒戒」については、元珪禅師は「酒に敗れる」という言い方をしている。要は、酔いすぎた酒の過ちということになりそうだ。そして、嶽神はそれには無縁だったのだろう。すぐに「持てる」と答えた。
さて、五戒を授けた後、元珪禅師は「これを仏戒とする」とまとめ、戒を護持することに心を寄せ、物事への執着には無心であれ、と示している。時代的には六祖慧能禅師の心地無相戒同様に、心地の強調が肝心だといえよう。
そして、ここまで考えると、万仭禅師は元珪禅師の教えによって、禅戒独自の理解や解釈を示そうとされたのだろう。他にも、達磨大師の『一心戒文』や、道元禅師の『教授戒文』を挙げていることからも、その辺は理解出来る。また、続けて神などに授戒した事例も挙げられているが、それは次回の記事で検討したい。
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