つらつら日暮らし

万仭道坦禅師『禅戒本義』所収「嵩嶽元圭禅師戒文」について(1)

まず、万仭道坦禅師の『仏祖正伝禅戒本義(以下、『禅戒本義』)』は『曹洞宗全書』「禅戒」巻に翻刻収録されているが、安永3年(1774)序・跋の版本があって、拙僧の手元には明治期の貝葉書院後刷本がある。それを見ても、「嵩嶽元圭禅師」と書いてあるので仕方ないのだが、「嵩嶽元珪禅師」と表記されるのが一般的である。その表記だと、『景徳伝灯録』巻4の表記から、五祖弘忍―嵩嶽慧安―嵩嶽元珪と続く法系の人で、要するに五祖からの傍出(例えば慧能禅師や神秀禅師ではない)の法系の人、ということになるだろうか。

それで、万仭禅師は『禅戒本義』に「嵩嶽元圭禅師戒文」を収録したのだが、これは先に挙げた『景徳伝灯録』を初め、『聯灯会要』巻3・『五灯会元』巻2などの「嵩嶽元珪禅師章」にも見え、見ることは全く難しくない。おそらく、中国禅宗では良く知られた話だ。なお、万仭禅師は『釈氏稽古略』巻3に「嶽神乞戒」として収録されているものを「戒文」と表記していると思われる。

詳しくは、以下のような話である。

 師、因みに嶽神稽首して曰く、我れも亦た余神より聡明正直なり。你知る、師に広大の智弁有ることを。願くは授くるに正戒を以てしたまえ。我をして世を度せしめよ。
 師曰く、汝、既に戒を乞う、即ち既に戒なり。所以は何となれば、戒外に戒無し。又た何ぞ戒あらんや。
 神曰く、此は理なり。我、聞て茫昧なり、止だ師の戒を求む。我が身、門弟子と為らん。
 師、即ち為に座を張り、炉を秉き几を正して曰く、汝に五戒を付す。若し能く奉持せば即ち応じて「能」と曰え、能わざれば即ち「否」と曰え。
 神曰く、謹んで教を受く。
 師曰く、汝、不婬を能せんや。
 曰く、我れ亦た娶れるなり。
 師曰く、此れを謂うにあらざるなり。羅欲無きを謂うなり。
 曰く、能。
 師曰く、汝、不盗を能せんや。
 曰く、何の我に乏かあらん、焉ぞ盗み取ること有らんや。
 師曰く、此れを謂うにはあらざるなり。饗すれば淫に福し、供せざれば善に禍するを謂うなり。
 曰く、能。
 師曰く、汝、不殺を能せんや。
 曰く、実に其の柄を司る、焉ぞ不殺と曰んと。
 師曰く、此れを謂うにはあらざるなり。濫誤疑混有ることを謂うなり。
 曰く、能。
 師曰く、汝、不妄を能せんや。
 曰く、我れ正直なり、焉ぞ妄有らんや。
 師曰く、此れを謂うにはあらざるなり。先後、天心に合わざらんことを謂うなり。
 曰く、能。
 師曰く、汝、酒に敗られるに遭わざらんや。
 曰く、能。
 師曰く、如上、此れを仏戒と為すなり。
 師、又た曰く、奉持に有心なるを以て、拘執に無心なれ。物の為に有心なるを以て、心想無し、身、能く是の如くなれば、則ち天地に先んじて生ずるも精と為さず、天地に後れて死すれども、老大と為さざるなり。
    万仭禅師『禅戒本義』3丁表~裏、原典に従って訓読、漢字などは現在通用の表記に改めた


詳細に見てみると、中国の漢籍仏典の場合は、ほぼ同じ文章のようである。『禅戒本義』については、それら中国の文献と比べて、多少の字句の違いがある程度であった。それで、万仭禅師が本書でこの一節を引いた理由については、次回以降も見ていくけれども、禅戒(菩薩戒)があらゆる存在に授けられるべきもので、人以外も対象となることを示したようである。上記の場合は神である。

そこで、上記の内容で面白いのは以下の2点である。

①授ける際の経緯
②五戒の解釈


まず、①については、嶽神が元珪禅師に対し、自分は聡明・正直であるから、是非戒を授けて欲しいと願ったわけである。しかし、元珪禅師は一度断っており、嶽神が受戒を希望したこと、それ自体が既に戒だから十分だという言い方をしている。しかし、嶽神はその見解は理としての戒であり、実際に受けることを願うと申し出たので、元珪禅師は神のために座を設けて五戒を授けようとした。

それで②となる。五戒については、いわゆる「在家五戒」であるが、元珪禅師は神に対して、それぞれについて持てるかどうかを答えるように求めた。その際、神との遣り取りが面白いのである。

なお、通常用いられる在家五戒の順番ではなくて、先に「不婬戒」から尋ねている。しかし、嶽神は「自分は結婚している」と答えると、元珪禅師は「その意味ではない。羅欲(網のように連なった強い欲のこと)が無いことをいう」と教えると、神は「持てる」と答えた。同じように、「不盗戒」についても尋ねると、嶽神は「私は経済的に貧しくはない。どうして盗みなどしようか」と答えた。しかし、元珪禅師は「その意味ではない。そなたに対して供物を供じた者へ弁えずに福を与えたり、逆に供養しなければ善人にも禍をなすことだ」というと、また、嶽神は「持てる」と答えた。

「不殺戒」について、嶽神は「私が人の生死を司っている。どうして、不殺でいれようか」と答えると、元珪禅師は「その意味ではない。生死を判断する際に、混乱しないことだ」と教えた。嶽神は「持てる」と答えた。また、「不妄戒」について嶽神は「私は正直だ。妄語などしない」と述べたが、元珪禅師は「言葉について、天の心に契わないことをいうことだ」と教えたが、嶽神は「持てる」と答えた。

最後、「不酒戒」については、元珪禅師は「酒に敗れる」という言い方をしている。要は、酔いすぎた酒の過ちということになりそうだ。そして、嶽神はそれには無縁だったのだろう。すぐに「持てる」と答えた。

さて、五戒を授けた後、元珪禅師は「これを仏戒とする」とまとめ、戒を護持することに心を寄せ、物事への執着には無心であれ、と示している。時代的には六祖慧能禅師の心地無相戒同様に、心地の強調が肝心だといえよう。

そして、ここまで考えると、万仭禅師は元珪禅師の教えによって、禅戒独自の理解や解釈を示そうとされたのだろう。他にも、達磨大師の『一心戒文』や、道元禅師の『教授戒文』を挙げていることからも、その辺は理解出来る。また、続けて神などに授戒した事例も挙げられているが、それは次回の記事で検討したい。

仏教 - ブログ村ハッシュタグ
#仏教
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

※ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最近の「仏教・禅宗・曹洞宗」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事