今日の夜には、柊の枝に鰯の頭を指したモノを戸口に立てて、鬼打ち豆(炒った大豆)を撒く。豆はなんでも良いと判断して落花生などを使うところもあるが、本来は炒った大豆であるべきだという考えもある。
或る調査結果では、「落花生」を使うのは、北海道・東北、そして新潟県辺りで顕著だそうで、それ以外ではほとんどが大豆を使うという。一方で、他の地域でも徐々に落花生が拡大傾向だという見解もあり、理由としては、一度地面に落ちても食べられるという安心感があるようだ。
大豆をそのまま撒くと、いわゆる「3秒ルール」でも適用できれば落ちても大丈夫なんだろうけど、そうじゃないとちょっと微妙な感じになる。特に、玄関とか、外に落ちた豆は、口に運ぶのは勇気が要ることだろう。なお、各地にて様々な言い伝えはあるそうですが、年齢よりも一粒多く豆を食べると、その年1年無病息災で過ごせるともされる。
また、大豆を煎って使うのは、それが床や地面に落ちた時、発芽しないようにしておくためだという。とはいえ、フローリングの床であれば関係が無い。
最近では、「節分の鬼」についてもキャラクター化されて、鬼のお面を付けた人などを狙ったりするが、本来の「鬼」は『万葉集』の時代では「モノ」と発音しており、直接言うことを避けなければならないほどの超自然的な、恐ろしい存在だとされた。また、「オニ」という存在は、本来形を見せない存在であった。
形が出来たのは、仏教によって輸入された「鬼神」の存在が大きいとされる。仏教は、日本に「神(仏)の形」を持ち込んだともいえる。日本では元々、神の形を描いたり、造形物に写し取るような作業は行っていなかったが、日本に於ける朝鮮半島からの仏教伝来は、仏像とともに行われた。したがって、その影響で日本の神・鬼にも形が出来たといえる。
さて、それで、禅宗寺院に於ける「節分」だが、江戸時代のものであれば以下のようなことが伝わっている。
立春は年内新年節を考へ、前夜に逐鬼の経あり。仏前に三供(註:三具足のこと)、洗米を備へ、鳴鐘集衆、住持焼香。普門品・大悲・消災にて回向す。諷経の間に、監寺、諸堂へ攤鬼豆を撒しむ。諷経罷、方丈に礼茶、行盞の次に豆を行く。
面山瑞方禅師『洞上僧堂清規行法鈔』巻3、カナをかなに改める
なんとなくですけど、今の我々がやっている「豆まき」と同じのようである。江戸時代の段階で、完全に禅宗寺院に節分の行持が入っていたことを理解できる。しかも、豆まきは「監寺(監院)」が指揮していた仕事だったこともわかる。確かに、様々な行持で、「食料」が関係している場合などは、監寺が率先して自分で仕事をするようにと、道元禅師も『知事清規』「監院」項で、指摘されるため、今回のような場合に監寺(監院)が仕事をするのは当然のことだと思って良いようだ。諸伽藍の管理も監寺の仕事だが、節分もそのような伽藍維持の一環だったものか。
そんなわけで、ちょっとした駄文、いや、拙文を連ねた記事になったが、これで終わる。
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