遺教経を講ず
五五百年前、遺経双樹の辺、
唐皇勅旨を欽みて、宋主流伝に忖む、
慈は無間獄に透り、悲は有頂天を越ゆ、
人顧命を忘るることを恐れ、巻を開いて機縁に対す。
『鷹峯卍山和尚広録』巻39「詩偈五七言長篇」
ちょっと調べ切れていないのだが、江戸時代の洞門学僧・卍山道白禅師による『遺教経』の講義に因んで詠まれた偈頌である。内容としては、「遺経」及び『遺教経』の意義を示したものである。
まず、「五五百年前」というのは、「二千五百年前」を意味し、卍山禅師の時代からすれば、釈尊の遷化がその時代だったことを意味している。そして、釈尊による「遺経」は、クシナガラの沙羅双樹の辺で行われたことを指している。
そこで、この『遺教経』の流伝については、『仏遺教経補註』の冒頭に見える「唐太宗文皇帝施行遺教経勅」「宋真宗皇帝刊遺教経」のことを指している。
卍山禅師はそのことをご自身の詩として示され、「唐皇」とは、唐の太宗(在位626~649年)のことを指し、「昔、唐の太宗勅して『遺教経』を手づから十人に書かせ、遍ねく諸郡に付し、用いて勸勉ならんことを伸ぶ、方に之れ今辰、其の間有る矣」(『註四十二章経』序)とあって、十人の書き手によって書写させ、唐代の各地の群に配布したというのである。
それから、「宋主」云々は北宋の真宗(在位997~1022年)が『遺教経』を刊行して、流布させたことを指している。真宗は同経を読んで、非常に良き学びを得たため、印刷して世に流布させたという。
また、釈尊が涅槃に臨んで示された「遺経」とは、まさに慈悲そのものの発露であり、その慈悲は六道の全てを覆い、更にそこから超え出て行くという。そして、人は釈尊が遺教で示した顧命を忘れてはならないとし、『遺教経』を開いたとしているのである。
簡単にいえば、上記のようなことである。そして、まさに卍山禅師ご自身も、経巻を開き、大衆を導かれたのである。
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