大唐貞観五年、梁州安養寺慧光法師の弟子、母氏の家貧しく、内に小衣無し。子の房に来入して故袈裟を取り、之を作して著く。諸もろの隣母と与に同聚して言笑す。忽ちに脚熱を覚え、漸く腰に上至し、須臾にして雷震霹靂す。隣母、百歩の外に擲つ。土泥両耳悶絶して日を経て方に醒寤を得るに、衣を用いる所の母、遂に震せられて火焼燋踡して死す。其の背に題して曰く、法衣を如法せざるに用いるに由るなり。
其の子、收めて之を殯するに、又た再び震出し、乃ち骸、林下に露れ、方に終に銷散す。
『法苑珠林』巻35「法服篇第三十」
なお、この一節は『続高僧伝』巻29が典拠である。そして、内容的に袈裟を着けたという見方が可能なのかどうか、疑問も残るが採り上げておきたい。これは、唐代の貞観5年(631)のことだったが、慧光法師の弟子がいて、その母は貧しかったため、自分の子供の房舎から、古い袈裟を持ち出して、自分の下着としていたようである。
それで、他の女性達と井戸端会議をしていたところ、その母はにわかに足元から熱を感じたところ、すぐに腰の高さにまで上り、落雷に遭って死んでしまったという。
その際、周囲の女性達も跳ね飛ばされてしまい、気を失ってしばらく経ってから気付いたところ、袈裟を着けた母は死んでおり、その背中には「法衣を如法ではない方法で用いたためである」と書かれていたという。つまり、比丘ではないのに、袈裟を着け、しかも正しい方法では無かったために罰せられたのである。
その子供である比丘は、母を弔ったようなのだが、その際地面が揺れて、母の遺体が樹下に現れたが、その後は塵の如く消え失せてしまったという。
何とも恐ろしい話である。ただし、この話は、『法苑珠林』にも掲載されたためか、日本でもしばしば参照され、正しく袈裟を着用しない場合の戒めとして用いられたのである。
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