亡母を追悼供養する為に目連が衆僧と共に或は舞ひ、或は躍りたるが盆踊の濫觴であると云はれてゐるが、仏の来光を希ふ為に、又は仏の来光を歓喜する為に躍る舞踊であるとも言ひ伝へられてゐる。
天野藤男『鎮守の森と盆踊』文原堂書店・大正6年、142頁
こちらでもやはり、盆踊りの起源を目連尊者に定めている。この辺は既に、先に上げたリンク先でも申し上げた通りで、『盂蘭盆経』の末尾に、「爾時、目連比丘及び此の大会の大菩薩衆、皆な大歓喜す」や「爾時、目連比丘、四輩の弟子、仏の所説を聞きて、歓喜奉行す」とある通りで、仏説を聞いて歓喜したことが、踊りを踊ったという風に理解されたが故といえよう。
まぁ、この辺、経典が説かれた後で、聞き手である仏弟子が喜ぶ場面というのは、珍しくない。よって、ここで「盂蘭盆会」に「盆踊り」として加わったのは、1つの偶然であるとも思うのだが、今のところ他に説明が可能な文献を見付けているわけではないので、まずはそのまま頂戴しておきたい。
それにしても、これらの教えが正しいかどうかが気になるのである。そもそも、「盆踊り」という用語自体は、古い文献には出てこない印象で、明治時代以降には一般的ではあるが、その前の時代でも、盆踊りは当然に存在したと思われる。だが、盆踊り自体は、民俗宗教の位相に近かったと思われ、そのため、僧侶たちが書く文献では、今ひとつハッキリとしていない。
どこに載っていたのか忘れたが、時衆の開祖である一遍上人が行っていた念仏踊りが、盆踊りになったという説を聞いたことがあるのだが、これはどうだろうか?
盆踊りは平安時代の空也上人が始めたといわれる踊り念仏が起源とされ、空也上人を鑽仰していた時宗の開祖一遍上人がそれに倣って始めた念仏踊りが後に仏教の盂蘭盆会(お盆)と結びつき、そこから死者を迎え供養する行事として定着していったものとされています。
熊野本宮大社公式HP「熊野本宮盆踊り大会」
ただし、ここ数日の記事で繰り返し指摘したように、様々な習俗的な修行と、盂蘭盆会との関わりは慎重に検討されるべきである。ここで指摘されるように踊り念仏が起源であるとしても、それと、盂蘭盆会との結びつきが実際に存在したのかどうか、もし、結びついたのだとすれば、いつ頃、どのように習合したのか?或いは、習合したのであれば、それが一遍上人に由来すると認識されたのはいつなのか?といった諸問題が残るのである。
それから、江戸時代、各藩城下町などでの無軌道な盆踊りの流行に対して、幕府は繰り返し「御触書」を出して、取り締まったという。特に、盆踊りは明確に町人文化と位置付けられ、もし、武士がそこに加わろうとした場合には規制されていたそうである(三好昭一郎氏「元禄期徳島城下における盆踊りの隆盛とその背景―地方都市社会史の一断面」、『鷹陵史学』巻29・2003年)。そう考えると、我々は盆踊りが伝統的に、各地で継続的に行われてきたと考えがちであるが、そうでもなかったという見方もすべきなのかもしれない。
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