子登『真俗仏事編』巻5に収録されている「春秋彼岸仏事」という文章の続きを見ておきたいと思う。
〇愚按するに已上の三説各おの采るに足る、就中第三の観経の釈、よしとす、
▲問ふ、何故にか彼岸と称たるや、
答て云く、梵語の波羅蜜多を到彼岸と翻す、謂ば穢土の此岸より煩悩生死の中流を渉て涅槃の彼岸に到の義也、然れば今彼岸と称るは因中説果の得名なり、
『真俗仏事編』巻5「雑記部」
さて、上記内容であるが、昨日までの記事で採り上げてきた3つの内容について、『真俗仏事編』の編者である子登によって、評した内容である。そして、もう結論は明確で、3番目に採り上げた善導和尚『観経疏』における「日想観」の見解を、良しとしている。
ただし、それでは、昨日申し上げた通りで、何故「彼岸」という用語と関連するか、良く分からないところがある。そこで、上記引用文の通り、「彼岸」という言葉を取り沙汰している。そして、彼岸を「波羅蜜多」の訳語だとしつつ、意味を「謂ば穢土の此岸より煩悩生死の中流を渉て涅槃の彼岸に到の義也」としている。
そして、これだけでは意味は分からないことになる。よって、注意をしておきたいのだが、本書ではこの辺を「然れば今彼岸と称るは因中説果の得名なり」という言葉で明かそうとしている。つまり、『観経疏』の「日想観」において、「因中説果」を適用すれば良いのだろうが、日想観という修行を因とし、その中に、極楽往生という果が説かれている、ということになるのだろう。
明日からは、江戸時代の真言宗の学僧・諦忍妙竜律師の『空華談叢』の「彼岸」項を学んでみたい。
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