みどりの日 五月四日 自然にしたしむとともにその恩恵に感謝し、豊かな心をはぐくむ。
「国民の祝日に関する法律(e-Gov)」
そこで、自然にしたしむ、恩恵に感謝、豊かな心と、いくつか気になるキータームがあったので、この辺から記事にしていこうか。そもそも、「自然」という時、我々が思うのは、人工物ではない存在ということになるだろう。例えば山、或いは川、或いは海。ところが、実際には、林は人間の植林の結果だったり、川だって、日本の場合にはしつこいくらい護岸工事がされているし、海についても、様々な人工物には事欠かない。
だから、そういう単純な区分で考えていくと、ちょっと厄介だから、区分を換えてみると、人間のコントロールの有無によって決めるというのはいかがだろう。例えば、最初は手を入れて植林された人工林でも、そこに人間のコントロールを離れて、様々な動植物が自生したとしたら、それを自然だと考えるわけである。護岸された川岸もまた、似たような状況にあろう。日本では、技術改良から、そのような自生を促すかのような部品が多く製造されている。
そうなってくると、これまた単純に自生しているかどうかや、コントロールの有無でもって、自然を規定できなくなる。やっぱり別の区分なり、基準なりが必要なようだ。我々が自然を感じるという時、コントロールの無いことが問題ではないというのは、正しいとは思う。しかしそれを、対象としての現象に求めるからおかしいのであり、それら自然というのは、我々自身が、そこにコントロールの無さを感じるかどうかであると考えたらどうだろう?いわゆる、禅宗で「ありのまま」とか、道教で「無為自然」とかいわれる考え方だ。
これを突き詰めていくと、実は、我々自身が一切の存在に対して、自ら心情的に関与しない状況に置くことで、それらを「ありのまま」にできる。いわば「万縁を捨てる」ということだ。しかしながら、それで対象が寂滅して、何も無いということには成らない。あることはあるが、そのまま、だから「ありのまま」ということになる。そして、この「ありのまま」から、さらに一歩を進めることも出来る。例えば、『正法眼蔵』「渓声山色」巻があるが、大本山永平寺5世・義雲禅師(1253~1333)が同巻への偈頌として、次のように詠まれている。
広長舌滑らかなり碧潭の中、
螺髪翠濃やかなり山頂の松。
八万の法蘊甚の章句ぞ、
文言絶待にして宗風を起こす(超える)。
原漢文
いわば、碧潭なる渓声が仏陀の広長舌であり、また山頂の翠の松は仏陀の螺髪であるとされている。広長舌も螺髪も、如来の徳相を示す三十二相の一だが、深く綠々とした水、緑色が美しい松、この両方ともに、自然の実相ではあるが、その実相がそのまま如来の徳相であるという。これこそが、先ほど示した「一歩を進める」ことである。ただの「ありのまま」から、仏陀の存在にしていくことが、道教と仏教との違いであるともいえよう。我々仏教者の自然とは、まさに一切の存在が仏としてあることに他ならないといえる。
峯の色 渓の響も みなながら 我釈迦牟尼の 声と姿と
『道元禅師和歌集』
道元禅師が示された「我が釈迦牟尼」という表現が重要であり、いわば、これら自然環境は、我々の自己から離れたところにあるのではなく、この自己を含めた世界が、釈迦牟尼仏である。その時、我々にとっての世界とは、我々自身の心情とは無関係のところにある一切の仏としての現象そのものとなる。仏法の自然とは、我々の近いところ、いや我々そのものを含めた一切の事象としてある。
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