三八念誦というのは、禅宗叢林で行う念誦(仏名のお唱え)のことであり、特に3と8が末に付く日に行ったので、「三八念誦」と通称される。行う目的は、念誦の回向文を見ると分かる。
念誦 〈三日〉
皇風永く扇ぎ、帝道遐かに昌たり、仏日輝きを増し、法輪常に転ず。伽藍土地、護法安人し、十方の施主、福を増し慧を増さんことを。如上の為に縁を念ず。〈十仏名之れ在り〉
念誦 〈八日〉
大衆に白す。如来大師入般涅槃し、今に至って日本〈某〉年、已に二千二百歳を得たり。是の日已に過ぎ、命亦た随って減ず。小水の魚の如し。斯に何の楽しみか有らん。衆等、当に勤精進して頭燃を救うが如くせよ。但だ無常を念じて慎んで放逸なること勿れ。伽藍土地、護法安人し、十方の施主、福を増し慧を増さんことを。如上の為に縁を念ず。〈十仏名、前と同じ〉
『瑩山清規』「月中行事」
これらからは、三日の念誦では、日本の皇室・国家のために祈りつつ、護法安人や、施主のための祈りを行っている。また、八日の念誦では修行者に無常を感じ、必死になって修行することと、護法安人などを願っている。いわば、世俗と出世と両方にそれぞれ祈りを捧げていることが分かる。なお、「念誦」のような「祈る修行」について、道元禅師が否定的だったのではないか?と思う人がいたとすれば、拙僧的には残念だ。
地を鋤し菜を種うるの時、裙・褊衫を著けず。袈裟直裰を著けず。ただ白布衫・中衣を著けるのみ。然而、公界の諷経・念誦・上堂・入室等の時、必ず来って衆に随う。参ぜずんばあるべからず。菜園に在っては、朝晩に焼香・礼拝・念誦し、龍天土地に回向すること、曾て懈怠せず。
『永平寺知事清規』「園頭」項
ここに、「公界の諷経・念誦」他とあるが、これは叢林内に於いて公的に行われる法要を指していると考えられる。だからこそ、園頭というような畑仕事をする役職の僧までも、仕事途中で切り上げて法要に随喜することが求められている。そうなると、道元禅師の時代の永平寺では、公的な「念誦」が行われていたと考えて良く、それは具体的には、安居結制前後の「土地堂念誦」や、「三八念誦」であったと考えられる。では、特に後者について、道元禅師自身がどう理解していたのかは、良く分からないところではあるが、道元禅師が修行された中国禅林では間違いなく行っておられたと思われる。
今、叢林の三八念誦罷って、なお参ずるはこれその原めなり。
同上「監寺に充たりし時大事を発明せし例」
このように、叢林で「三八念誦」罷に、「参(問答)」を行うことを、当然のこととして採り上げておられることが分かる。よって、拙僧はこれらの証拠から、道元禅師が「三八念誦」を行っておられ、しかもそれが、瑩山禅師の叢林でも受け嗣いでおられることを確信するものである。
また、次の記述も確認しておきたい。
一・五日に一たび参じ、三八日に晩参す。四恩三有の為に念誦し奉り、毎月六に准と為す。
念誦三八に逢い、陞堂五日期なり、
昔賢懿範を垂れる、後代相違すること莫れ。
『禅苑清規』第10巻「百丈規縄頌」
道元禅師も参照されたはずの、「百丈規縄頌」だが、そこに「三八念誦」について記されている。これを読むと、「念誦」と「晩参」との関係性について考えたくなるけれども、慈明楚円禅師の一件も関係しているのだろう。『禅苑清規』の成立は慈明楚円禅師の一件の後の話である(だいたい、80年くらい前後している)。
以上のように、「三八念誦」に関連して、中国の禅林から、初期曹洞宗の様子までをざっくりと見ていただいた。これらの文脈が、同行持の淵源と見て良い。ところで、年代的確定だが、「百丈規縄頌」にあるということは、一応、8世紀まで遡ることが可能なのだが、容易に決定することは出来ない。傍証を要するのだが、それはまた別の機会にしておきたい。
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