つらつら日暮らし

凡夫とはどういう存在か?

とりあえず以下の一文をご覧いただきたい。

「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとへにあらはれたり。
    親鸞聖人『一念多念文意』


まさしく凡夫である。いわゆる三毒としての貪瞋痴全てが具わる存在であるし、しかも、そのような三毒が、臨終まで止まることも無いし、消えないし、絶えることも無いとしている。もう、どうしようもない存在だ。そもそも、浄土真宗というか、親鸞聖人は、自らがこの凡夫たるを知ることから始まっている。結局、こういう存在性である以上、どんな修行をしても結果は出ない、よって、阿弥陀仏の本願力でお救いいただこうという発想なのだ。

しかれば、わが身のわるければ、いかでか如来迎へたまはんとおもふべからず。凡夫はもとより煩悩具足したるゆゑに、わるきものとおもふべし。またわがこころよければ、往生すべしとおもふべからず。自力の御はからひにては真実の報土へ生るべからざるなり。
    『親鸞聖人御消息』


その辺が、こういう形でまとめられている。凡夫とは煩悩を具足した存在で、先の『一念多念文意』からすれば、自らの努力で払拭できるわけでも無い。よって、「わるきもの」なのである。一方で、この世界には様々な機根の衆生が生まれる。善人で智慧ある者もいれば、凡夫もいる。だけれども、多少、人間として優れているからといって、往生するわけでも無い。むしろ、そのような自らの善さを恃んで、自力の行を進めていても、所詮は人間の為す業、往生に遠く及ぶはずも無い。よって、まずはその自力の計らいでは往生は契わないと知るべきなのである。

ここまでは聞き分けの良い理解の仕方である。

拙僧つらつら鑑みるに、むしろ、問題なのは、本当の意味での凡夫である。親鸞聖人が指摘する上記のような凡夫は、まだ、自らを凡夫だと知ることが出来る。だが、それを知ることが出来ず、自らの力を恃み続ける自分本位の人もいるだろう。

悪と驕慢と蔽と懈怠のものは、もつてこの法を信ずること難し。
    『仏説無量寿経』


まさしくこの通りである。そして、特に「驕慢」の心はどのようにして克服することが出来るのだろうか?親鸞聖人は、次の一節を引用しておられる。

信は道の元とす、功徳の母なり。一切のもろもろの善法を長養す。疑網を断除して愛流を出で、涅槃無上道を開示せしむ。信は垢濁の心なし。清浄にして驕慢を滅除す。恭敬の本なり。
    『顕浄土真実信文類 三』、『華厳経』「賢首品」からの引用


このように、驕慢の心を滅するのは「信」である。或いは、浄土真宗であれば、阿弥陀仏に頼む心ともいえよう。素直に阿弥陀仏に救われたいと願う時、我々の心には、確かに驕慢は無い。それが肝心である。かの、「退亦佳矣」の一事の通りで、『法華経』であっても、慢心を持つ者への対応は苦慮したはずだ。余程、注意されねばならない。

そして、残った問題は、では、どのようにして信を生じさせるか、であるが、それについても、阿弥陀仏の本願力が回向されるという立場が、浄土真宗なのだろう。我々が浅知恵をこねくり回して、考えるのもまた無理があると思う。

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