例えば、『長阿含経』に収録される「遊行経」を見てみると、「是の故に、比丘よ、無為放逸を為すこと無かれ。我れ以て放逸せざるが故に、自ら正覚に致る。無量の衆善も、亦た放逸せざるが由に得ん。一切の万物、常存するもの無し。此れは是れ、如来末後の説く所なり」とあって、世尊末後の説法が終わり、その後は、入定して、最後に入般涅槃する様子へと続く。
しかも、「遊行経」の場合はそこでは終わらずに、火葬にして供養し、舎利(遺骨)を納めるために造塔(卒塔婆を建てるということだが、要するに我々からすれば墓を建てることだ)する話なども続いていくのである。
しかし、『遺教経』は、先ほど挙げた「末後の説法」までで急に話が終わってしまうのである。まぁ、だからこその「略説教誡経」というタイトルなのだろうとは思われるし、転ずれば、世尊の最期を忠実に描くというよりは、その遺教・遺言を伝えることこそが、本経典の意義ということにもなるだろう。
また、上記のことについては、『遺教経』の末尾について論じる際に再度採り上げてみたい。
ということで、今日は以下の一節を学びたい。
汝等比丘よ、已に能く戒に住するに当に五根を制すべし。放逸にして五欲に入らしむること勿れ。譬えば、牧牛の人、杖を執りて之を視、縱逸に人の苗稼を犯さしめざるが如し。若し五根を縦にすれば、、五欲の崖畔無くして制すべからざるのみに非ず。亦た悪馬の轡を以て制せざれば、人の坑陥に墜ちるが如し。劫害の如きは苦、一世に止まるも、五根の賊の禍殃は累世に及ぶ。害の為すは甚だ重し。慎しまずんばあるべからず。是の故に智者、制して随わず、之を持すること、賊を防ぐが如くして、縱逸ならしめず。仮令、之を縱にせば、皆、亦た久しからずして、其の磨滅を見る。
『仏垂般涅槃略説教誡経』「二、世間の功徳を修習する分」、訓読は拙僧
上記一節については、2017年に【『仏垂般涅槃略説教誡経』に学ぶ(7)】で学んだところではあるので、詳しいことはそちらをご覧いただきたい。今回は、あくまでも『和解遺教経私鈔』の註釈から学んでみたい。上記内容を概観すると、気になるのは「五根」の意義についてであり、しかも、「五根」が何故問題になるのか?ということになる。
まず、この一節について、『私鈔』では、「上の戒護に対して二に念護なり」とし、我々自身の思念の放逸を防ぐことを説くとしている。それで、本節の註釈は、問答体であるため、幾つか紹介しておきたい。
問云、衆生の起業造惑は皆な五根より生ずること可なり。此の五根の惑業は皆意に依て起る所なり。何ぞ今、之を挙げざるや。
答云、論主の意に云く、五根は色法なり。意は非色の法なり。今特に、之を分かつべきか。故に況や復た下の欲放逸の科の下に意を以て主とすることを顕せり。且つ又た五根は対礙の法なれば、互に相通ぜず。意は不対礙なる故に相通の法にして五根を摂するに過無し。
『私鈔』31丁表、カナをかなにするなど見易く改める
さて、まず問いについては、衆生の問題なる行為は、皆五根から生じているが、この五根は我々の意から起きる。それなのに、何故先に「五根」のみを挙げるのか?というものである。それに対して、『私鈔』では、『遺教経論』の意を受けつつ、五根については「色法」であるとしている。つまり、我々の目に見える物質的存在を指し、意は「非色」であるという。その分別を受けつつ、まずは、色法としての五根を挙げつつ、更に、「欲放逸」以下から、意の論議も挙げており、結果として、意は不対礙として五根を包摂するから、十分に両方とも機能しているという。
又問云、五根を制せざれば五欲に入ると云こと如何。
答云、五根の中で先づ眼根の一つで云はば、五境の中の一の色を見て白し赤しと見たる分は、欲ては無ぞ、彼の赤白の上に姸婼の相を見出し違順を分別して、若し己が心に合ふ則んば、此の如くの色哉と執着し、局詫する故に其の意自ら放逸にして、五欲の淵に入ること速かなり。
『私鈔』31丁表~裏
ここでは、五根と五欲の関係を問うている。『遺教経』の本文でも、その通りなのだが、『私鈔』では、五根の中でも「眼根」を例にしながら、赤だ白だという分別自体が、自分の心の想いと合して執着し、結果として五欲に深まっていくことを示した。つまりは、事象(五境)と、器官(五根)との和合によって、「五欲」になるという話であり、この辺は仏教として標準的な発想になるといえよう。
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