つらつら日暮らし

中西牛郎『宗教革命論』に於ける「新仏教」の態度について

この中西牛郎氏(1859~1930)という人物は、評価が難しい人だと感じている。その理由については、当方の個人的見解よりも、素直に【中西牛郎―コトバンク】をご覧いただくのが良いと思う。ご一読いただければ、仏教などに収まらず、教派神道を含めて、幅広く活動した人である。ただし、この人のことは、「国粋主義を標榜した」という1つで括っても良いとはいえる。

この人は、言論活動も広く行った人であるが、著作に『宗教革命論(訂2版)』(博文堂・明治22年)がある。そこで、同著作の「第十二章 旧仏教を一変して新仏教となさざる可らず」を読み説いていきたい。以下、断らないが、カナをかなにし、漢字は現在通用のものに改める。

まず、ここでいう「旧仏教」とは、江戸時代以前から日本に存在した従来の日本仏教界を指しており、中西は以下のように批判する。

夫れ仏教は仏教なり。新仏教たるも旧仏教たるも、其仏教たるに於ては毫も異なる可き筈なし、然ども旧仏教は仏教の真面目に雑ふるに、頑固、偏僻、肉欲、腐敗、虚飾、妄信、偽善、其他人間の弱点、社会の境遇より生ずる種々の悪弊を以てし、新仏教は仏教の純潔なる真理と真正なる道徳とを明にし、其形貌に拘泥せずして、其精神を発揮するものなり。
    『宗教改革論』182~183頁


以上のように、従来の仏教各教団について批判している。中でも、「頑固、偏僻、肉欲、腐敗、虚飾、妄信、偽善、其他人間の弱点、社会の境遇より生ずる種々の悪弊」が大きな影響をしているという。そういう中から、「仏教の純潔なる真理と真正なる道徳」を明らかにするのが、「新仏教」だというのである。とはいえ、こういう「高邁な理想」とは、その活動の最初の段階において、少数の理想者によってのみ推進されるものである。何故ならば、従来の仏教教団も、その成立の最初には、「純潔なる真理・真正なる道徳」を目指した事例が見られるためである。

そこで、中西氏が述べた旧仏教と新仏教との違い(或いは、旧仏教への批判点)は以下の通りである(以下、長文が続くが、ここでは項目のみ採り上げる)。

第一 旧仏教は保守的にして新仏教は進歩的なり
第二 旧仏教は貴族的にして新仏教は平民的なり
第三 旧仏教は物質的にして新仏教は精神的なり
第四 旧仏教は学問的にして新仏教は信仰的なり
第五 旧仏教は独個的にして新仏教は社会的なり
第六 旧仏教は教理的にして新仏教は歴史的なり
第七 旧仏教は妄想的にして新仏教は道理的なり


項目のみを挙げてみたが、この段階で違和感しか残らない、というのが当方の率直なる印象だ。この内、「新仏教」という名称と相即すると思われるのは、「第一」のみである。以下は、それこそ仏教の歴史を撥無した、独断的な見解である。以下は、当方の興味を下敷きに批判=吟味していくが、まず「第六」で、独断的であるのに新仏教を「歴史的」と論じる理由は何だろうか?

夫れ宗教は確乎不抜なる教理を以て此れば基礎とせざる可らず、然ども教理は教祖の顕示したる所を帰納し演繹したるものに過ぎず、而して歴史は顕示者の降誕、教育、言語、道徳、智慧、艱難、経験、事業、時勢を記録するものなり。故に教理は抽象的也、歴史は実体的也、教理は理論的也、歴史は実際的也、教理は智力的也、歴史は感情的也、
    『宗教革命論』200頁


なるほど、これは確かにいえることである。往々にして、教理が強い宗派は、その教理を強引に歴史を無視して適用させようとする傾向がある。その点、歴史を踏まえると、どうしても教祖や教理についても批判が働く傾向がある。よって、以上の中西氏の見解は正しいといえる。だが、他は「新仏教」という「言葉」からは、ほとんど導き出せない。

まず、「第二」については、教団組織が新しい場合にのみ適用されるもので、教団組織が運営されて時間が経ってくると、必ずその中で人間関係の上下が生まれ、そこから、ここでいう「貴族―平民」という分断が登場する。よって、これは最初のみいえるのである。

「第三」も、教団組織が新しく、人も金も集まっていない時にのみいえるもので、物質の欠如・欠乏を補うために、「志」や「精神」が強調されるのみである。人や金が集まってくると、必ず物質的になる。よって、宗教を、物質と精神という対立軸で論じることには、意味が無い。

「第四」も、教団自体に時間的な経過に基づく歴史が具わってくると、教団や教祖、教理が研究対象になったり、或いは、時代や社会の変遷に対して、新たに教義や実践を対応させていく必要が出て来る。その中で生まれてくるのが、「学問」である。一方で、まだ学問の必要が無い頃は「信仰」だけを強調していれば良いのである。

「第五」については、教団が成長してくると、信者は新規に獲得していくよりも、従来からいる人達を囲い込みする方が効率が良くなってくる。本書ではそれを「独個的」と論じているのである。まだ、教団を支える信者層の基盤が出来ていない頃は、「社会」全体から、今後に支えてくれる人を新規に来ていただかなければならないので、「社会的」であらねばならないのみである。

「第七」については、「妄想」と「道理」が対立軸になるというのも不思議な感じだが、個人的には当初の「信仰」が社会の常識などと合わなくなると、「妄想」といわれるのであって、結局はこの話も、新しい教団組織の展開と同じである。

以上、大変に部分的な批判で恐縮だが、正直、上記のような話の進め方には、当方は飽きている。新しい教団を始めようとする人達は、ほぼ必ず同じことをいうからだ。理想で全てを語れる状況が変化し、それが更に伝統となった上で、その伝統の中で新しいことが出来る人が、本当の意味での改革者なのである。伝統をただ批判しただけで、新しいことをしたと思うのは、児戯に等しい。

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