「広く学ぶことはとてもできることではない、むしろすっぱりと思い切って、ただひとつのことにもっぱら励むことだ」
by山岡士郎
これが、道元禅師の言葉って事らしいが、出典は何処だろうか?『美味しんぼ』は料理に関するマンガだから、それを思う時、主として、『赴粥飯法』とか『典座教訓』辺りを考えてしまいたくなるが、ここで引かれたものを見ると、『正法眼蔵随聞記』っぽいかな。よって、探してみた。
示曰、広学博覧はかなふべからざる事なり。一向に思ひ切て、留るべし。
『正法眼蔵随聞記』巻2
手元でちくま学芸文庫を開いたら、たまたま最初のページにこれが出て来て、一瞬で発見した・・・まず間違い無くここを指していることだろう。現代語訳としては、先の『美味しんぼ』そのまま。これで記事終了、だとつまらないので、先に引いた言葉の“続き”を見てみよう。
ただ一事に付て用心故実をも習ひ、先達の行履をも尋て、一行を専はげみて、人師先達気色すまじきなり。
同上
むしろ、こちらも重要かと思う。これは、仏道修行はもちろんのこと、あらゆる「道」の参究に用いることが出来る教えである。つまり、1つのことを極めたいと思うのならば、用心(心持ち)や故実(かつての出来事)を習うことが肝心だという御垂示である。それは、自らが学ぶ時の指針となる。そして、先達の行履(行い)をも尋ねるべきだという。「道」というのは、自分で発明することなど出来ない場合がほとんどで、むしろ、先達と同じ道を歩むことによって、正しき方向に歩むことが肝心である。
そして、余計なことに把われるのではなくて、自らが進む、この道、この一行を専ら修行していく、常に修行していることが重要である。知ったフリをして、人の師匠ぶったり、先輩ぶったりするのは、決して良いこととはいえない。もし、後輩を得て、それに何かを教える立場になったとしても、それは自らが偉いことを誇示するのではなく、その学びを通した後輩に、逆に教えを請うためだという位謙虚であるべきだ。
道元禅師は、この「一行」を専ら励むべきだと唱えられた。これは、例えば法然上人が説くような専修念仏とは構造が違っている。法然上人の場合には、時代的な要素、人間の能力的な要素などを勘案して、もはや、阿弥陀仏の本願におすがりするしかない、という凡夫の自覚が、必然的に「専修念仏」を生み出した。
道元禅師の場合はそうではない。自らの身心を用いて修行する限り、どうしても、その中で技術的な習熟を必要とする。或る意味での職人気質であろう。これは、あらゆる「道」に共通しており、その観点で「一行」を唱えられている。そして、そこに、如浄禅師から教授された「只管打坐」が組み合わさってると理解するのが良い。
その意味で、『美味しんぼ』に引用された理由が理解出来るだろうか。
#仏教
最近の「仏教・禅宗・曹洞宗」カテゴリーもっと見る
最近の記事
カテゴリー
バックナンバー
2016年
人気記事