つらつら日暮らし

大内青巒居士『信行綱領』について

拙僧個人としては以前、青巒居士についての評伝を発表する機会を得ていたのだが、思想的には更に追究していく必要を感じていた。それで、1つ明らかにしておきたいのが『信行綱領』である。

『信行綱領』とは、青巒居士が仏教全般について、三信・三行に体系化したものであり、弟子筋の加藤咄堂居士などは、本文の表詮を青巒居士の5つの勝躅に数えている。然るに、関連事項を色々と調べてみた。

まず、『信行綱領』の成立時についてだが、青巒居士自身が記した『信行綱領』全文が加藤咄堂編『国民思想叢書・仏教篇下』(国民思想叢書刊行会、1931年8月)に掲載され、同文の末尾には「明治二十四年一月二十三日 靄々居士撰」とあるため1891年1月23には世に示す状態にあったことが分かる。

そして、これがどういう時期であったかといえば、この少し前、前年の12月に『曹洞教会修証義』が当時の両大本山貫首猊下によって「本宗布教の標準」として定められた。なお、更にその前年(1889年)12月に行われた第三次末派総代議員会議(現:曹洞宗宗議会)の決議により、青巒居士もその発起人を務めた曹洞扶宗会は、曹洞教会と合併していた。なお、青巒居士自身はその前1888年(明治21)12月から翌月にかけて、「曹洞宗改進方案」の取り扱いを回って同会を辞職し、全く同時期に「尊皇奉仏大同団」を結成して活動を開始している。

「曹洞扶宗会」にいた頃は、当然に曹洞宗の教学への発言が見られた青巒居士だったが、元々は通仏教的立場の人であり、「尊皇奉仏大同団」では元の立場に回帰したと見るべきである。その時期を経ての『信行綱領』であるため、内容も通仏教、つまりは特定の宗派の教理に依拠しないものであるといえる。なお、本文執筆の動機・経緯について、青巒居士は次のように述べる。

方今真理を愛し道徳を重んずるの士女、仏教を講究し且つ履践せんと欲する者頗る多し。然れども経典の浩瀚なる、教義の高尚複雑なる、各宗派の途轍多岐なる、言論字句の世間に異なれる等、一再これを見聞するも遽かに其の津梁を得ること能わず。茫然として路傍に躊躇する者滔々皆是れなり。予また固陋寡聞一も得るところなし。然れども夙に久しく仏海に游泳し、聊か水波の性情を蠡測するところなきに非ず。嘗て窃かに諸仏垂教の原則を探り、諸祖化導の洪範を尋ね、爰に三信三行を撰みて以て吾人在家の者の仏教を信じ、且つ行ふ普通の標準と作す。蓋し三信は大乗の通義にして吾人真理を講究するの原則、三行は菩薩の要路にして吾人道徳を履践するの洪範なり。而して各宗派の帰趣また此に外ならず。
    青巒居士『信行綱領』、『国民思想叢書・仏教篇下』233頁


つまりは、各宗派の教理については、非常に複雑で、学ぼうとしても理解出来ないので、その仏陀の教えの「原則」を掴んで、「三信・三行」とし、これを在家信者が学ぶ際の「標準」にするという内容である。先ほど、「通仏教」であると述べたが、それは上記引用文からも理解可能であり、更に「三信・三行」を見ていくと、その想いを強めることになると思う。

  三信
 吾人は無限の空間に充塞し、無限の時間を通貫して宇宙平等の本体たる絶対不変の霊光あることを確信す
 吾人は宇宙平等の本来活動して万象差別の現相となり、因縁相続して世界の果報歴然たることを確信す
 吾人は万象の妙用各其の本徳を全うして互に相感応せるときは、即ち差別の現相直に是れ平等の本体たることを確信す


  三行
 吾人は凡そ止悪転迷の規律皆誓て之を実行す
 吾人は凡そ修善開悟の道法皆誓て之を実行す
 吾人は凡そ済衆救世の事業皆誓て之を実行す
    前掲同著、234~235頁


・・・一応拙僧も、大学院に在籍していた頃に、周辺で「本覚思想批判」なんて言う声を聞いては来たので、その観点からはかなり危ない内容であることは分かる。無論、「三信」について考えるならば、青巒居士はいわゆる「実在」について論じていることが分かる。かつて聖徳太子が「世間虚仮・唯仏是真」と述べ、浄土教系で「厭離穢土・欣求浄土」と述べたことからも分かる通り、この我々の現実は無常であるわけだが、仏陀・仏身のみは実在であるという確信をもって、現実に於ける様々な苦悩からの解脱を願う内容だといえる。青巒居士は、その確信を元に、後は現実に於ける展開を考えていた。「本体平等・現相差別・妙用感応の観念」、これが「三信」である。しかも、この「三信」をもって、諸宗派の教学を包摂する考えも見える。

華厳宗の真空事理周偏、天台宗の空仮中、真言宗の六大四曼三密、禅宗の正偏回互等、皆悉く体相用の通義に出る者なし。大なる哉、三信の法門や。
    前掲同著、235頁


包摂の規準となっているのが、「体相用の通義」である。これについては、青巒居士は『大乗起信論』の「立義分」を参照したとされており、同分では「摩訶衍(大乗)の義」に、「体相用の三大」があるという。よって、その諸宗派の教理に通底する「体相用の三大」を、青巒居士なりに言い直したのが「三信」になるのである。

同じく「三行」については、一見して「三聚浄戒」に基づいて体系化された説だと分かる。「三聚浄戒」とは「摂律儀戒・摂善法戒・摂衆生戒」とあって、まさしく止悪・修善・済衆の内容である。更にこれを、「律儀・修行・布教」として、「三信」同様に諸宗派の修行体系を取り込んでいるが、特に「摂善法戒」を見ていくと以下のようにある。

摂善法戒と曰ひ智徳波羅蜜と曰ふ、皆修善の謂なり。忍辱精進禅定念仏唱題誦咒等、及び世間彝倫の教誨皆此の中に摂む。
    前掲同著、236頁


つまり、禅宗の禅定を始めとして諸修行が皆、「三信」の就中「修行」に包摂される様子が分かる。

よって、これらから「三信・三行」の『信行綱領』は通仏教を基本としつつ、諸宗派の違いを超えて連帯していくためのガイドラインであったことが分かる。しかも、この標準体系は、すぐに青巒居士の周囲の門弟達によって、一気に広められていく様子が分かる。例えば、本綱領が示された明治24年の9月には、弟子筋の今井藤五郎 (微笑居士) が『宗教優劣論』(森江佐七)を著した。本書には青巒居士が序を寄せているけれども、微笑居士が諸宗教の優劣を論じ、最後に、優れた宗教としての仏教を顕彰する際に、『信行綱領』が用いられている。

余、此頃ろ靄々居士大内先生を訪ひ、左の三信三行を授かるを得たり。世人同感の人多からん。
    『宗教優劣論』72頁


微笑居士はこの三信・三行の優れた体系が、世間の人にも好評を博するであろうことを想い、同著に転載したのである。

また、青巒居士自身も、この後は『信行綱領』を用いて説教していく様子が伝わる。1908年(明治41)2月に井冽堂から刊行された『仏教之根本思想』は「信行綱領」を中心に展開しており、冒頭にその全文が記載されるとともに、第4章が「信行綱領」となっており、具体的に諸宗派の教理との関わりを説いている。また、加藤咄堂居士による「凡例」には次のようにある。

信行綱領は我が大内青巒先生の所撰にして、諸仏の垂教・各宗の帰趣も亦之れに過ぎたるはなき大乗仏教の根本思想たり。予、教を先生に受くること二十年、探真に疑あれば之れを三信に解き、修善に難あれば之れを三行に問ひ、森茫たる仏海常に之れによつて其指針を得たり。
    『仏教之根本思想』凡例1頁


上記引用文の末尾に顕著だが、咄堂居士は同綱領を、膨大・深遠なる諸宗派の教理を理解するための「指針」に用いていたことが分かる。おそらくは当時、仏教を学ぼうとした在家者が、この指針を欲していたと考えられるし、転じていえば、諸宗派の教理は深遠そうに見えても、「三信・三行」に窮まったともいえる。

ここまで考えてみて、拙僧つらつら鑑みるに、おそらくは青巒居士、若い時分に関わっていた「和敬会」では、「四恩十善」の標準を説いていたが、それを転じて、曹洞扶宗会では「本証妙修の四大原則(現行の「四大綱領」)」を説くに到った。そして、またその後転じて、「三信三行の信行綱領」を説くに到ったと結論付けることが出来る。前者二体系は主として、「戒と恩」とに極まり、前者が仏教徒としての自覚、後者を仏教としての社会貢献に割り振っていた。だが、ここにはどうしても「修行」が抜ける嫌いがあった。戒があっても、修行が抜ければ、自らの鍛錬には不足する。よって、それを追加して出来たのが、「三信三行」であったといえる。そして、先に見た「戒と恩」については、「三行」の2つに組み込んだのである。

このようにして見ると、青巒居士の仏教標準思想の探究は、時代によって変化していたことが分かる。そして、「修行」を組み込むに到ったのは、曹洞宗内での『修証義』を回る議論の中で、『洞上在家修証義』と青巒居士自身が晒された批判に応対していくものであったと推定できるのである。

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