つらつら日暮らし

6月1日 旧暦なら半夏節

今日、6月1日は半夏節である。半夏節とは、夏安居の半分という意味で、旧暦の時代は4月15日結夏、7月15日解夏であったため、6月1日が半夏であった。

六月一日、半夏節と称す。若しくは上堂の次で、坐禅を放下する由を報ず。即ち随意坐禅なり、打鈑せざるのみ。
    『瑩山清規』「年中行事」


以上の通りである。そこで、「半夏」で調べてみると、以下の事績が確認されたので、学んでおきたい。

・師、又、末世の規矩を遺す為に、越前中浜に在りて、半夏頭院(陀?)行化す。 『三祖行業記』「懐奘禅師章」
・師、又、末世の規矩の為に、越前中浜に在りて、半夏頭陀化を行ず。 『三大尊行状記』「懐奘禅師章」


上記は、大本山永平寺二祖・懐奘禅師(1198~1280)の最古の伝記に位置付けられる『三祖行業記』『三大尊行状記』を引用したものだが、それらの伝記の末尾にこの一事が見られる。そうなると、おそらくは懐奘禅師晩年の事績であろうかとも思われる。意味だが、懐奘禅師は末法の世に於ける規矩を遺すため、永平寺から越前中浜まで出て、半夏に「頭陀化(おそらくは托鉢のことである)」を行ったという。

そこで、周辺的なことを調べてみよう。まず、「越前中浜」だが、これの確定が難しいようだ。例えば、池田正男氏「越前禅宗草創期における豊原寺との接点 付 越前出身僧 古源劭元について」(『若越郷土研究』59-2、2015年)では、熊谷忠興老師の論考を引用して「福井市稲多浜町辺」という見解を紹介している。ただ一方で、『長野市誌』所収「中世史料に見られる新善光寺一覧」では現在の「あわら市中浜」のこととされる。

どちらが正しいのか?現段階で、拙僧には確定出来ないが、現在まで「中浜」の地名を遺すなどしており、「あわら市中浜」で問題が無いのでは?という印象を持っているがどうだろうか。更に、現在でも中浜中央部には寺院がある。

それで、永平寺からあわら市中浜への距離だが徒歩では27キロ程度となり、例えば成人男性であれば7時間弱で着くようだ。晩年であられたであろう懐奘禅師の脚力について推定は困難だが、半夏の頃数日をかけたと考えれば、往来は可能であろう。

それから、ちょうどこの頃になると思われる弘安2年(1279)、後の永平寺5世・義雲禅師が「中浜新善光寺」にて『正法眼蔵』の一部の巻を書写したともされる。そうなると、「中浜」に新善光寺という寺院が存在していたようだ。ただし、懐奘禅師の伝記には「新善光寺」と出ているわけではないので、関係性には注意が必要である。

それから、末世の規矩と「頭陀化」との関係性を考えると、詳細は不明だが『正法眼蔵』に或る一節が見られる。

第八祖摩訶迦葉尊者は、釈尊の嫡嗣なり。生前もはら十二頭陀を行持して、さらにおこたらず。十二頭陀といふは、〈中略〉これを十二頭陀といふ。摩訶迦葉尊者、よく一生に不退不転なり。如来の正法眼蔵を正伝すといへども、この頭陀を退することなし。
    『正法眼蔵』「行持(上)」巻


以上の通り、道元禅師は頭陀行を能く行った人として西天第一祖・摩訶迦葉尊者を顕彰している。もちろん、迦葉尊者の時代としてはまだ正法であるが、末世にもこのように行うべきだと懐奘禅師が考えたとしても、不思議ではないと思うのだが、如何。

なお、今後もまだまだ検討しなくてはならないが、今日という日に因み、懐奘禅師晩年の事績を顕彰してみた。

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