それに因んで以下の一文を見ていきたい。
祝法衣餈○廿日は、永平祖師帰朝し、この日に法衣を祝せらると云い伝う。粥後、住持の本師の像前に、侍衣、華炉燭を備え、厨下に聞き合せ、時至りて茶鼓一通し、大衆、像前に集まりて三拝して立つ。侍者、通覆し、主人、出て焼香。維那、『大悲神呪』を挙し、「上酬慈蔭(上み慈蔭に酬いんことを)」の回向し、大衆、三拝分立す。
次に侍者の問訊了って、住持、正面に大衆と相い揖して、展具著座。侍者、鳴版一下し、行者、盛餈の椀に箸と茶盞を添えて托盆して、住持より両序次第に行き了って、侍者、中揖して、大衆、相い揖し喫す。了って餈の水引湯を行いて、鳴版一下し、瓶を行く。喫茶了って、亦た一下し、盆を収む。次に退座鼓三下。住持、大衆相い揖し起座。像前に三拝、亦た住持に謝茶。触礼三拝し散ず。
この餈、赤小豆にて調う。菜をそえず。一椀にて再進せず。慇懃の至るを表す。水引湯は、大衆飲み余りを俗人に飲ませず。河海の中に入る。この餈の桶器椀盤を洗いし湯水も、河海に入る。河海なき所は、人行くことなき浄地に棄つ。
面山瑞方禅師『洞上僧堂清規行法鈔』巻三・年分行法
このようにあって、面山禅師の時代には、1月20日に行われていたことが分かる。なお、ここで食べられている餅は前年の年末に大衆が舂いて鏡餅の状態にしておいた物である。
住持、沙弥・行者等傍に立ちて、『消災呪』を誦し、つき了って、三宝龍天に回向し、餈を三分して、一分は大円鏡に作り、一分は小円鏡に作り、一分は平にし、〈後に、方形にみつにして、鏡の上に安ず〉直に浄処に安じて、香華を備え、鼠の汚さぬ様に、衣鉢侍者、守護し、元日に法衣箱の上に備う。最初より、俗人の手触れぬ様に念入れるべし。
同上、「擣餈普請」項
「大円鏡」「小円鏡」の組み合わせについて論じられており、明確に鏡餅であることが分かる。それで、面山禅師は20日を鏡開きだとしておられるが、Wikipediaなどによると、徳川家光(1651年死去)の忌日(4月20日だったらしい)を避ける意味もあって、それ以降「1月11日」になったというが、1753年に刊行された『僧堂清規』の段階で、まだ20日であったというのだから、江戸時代の状況については、もうちょっと色々な資料を基に考えて見なければならないと思う。
さておき、江戸時代の禅林内に於いて、鏡開きはどうしていたのか?ということで、最初に引用した文章を見ていきたいと思うのだが、「法衣餈」という儀式であったことに注目したい。面山禅師は、道元禅師の帰国が「20日」であったとされる。とはいえ、管見では『永平実録』も『訂補建撕記』も、「20日帰国」とは書いていない。『嘉禄考』という文章も面山禅師は書いているけれども、それだと何故か、安貞への改元が4月20日とか書いているから(本来は12月10日のはず)、それを元に「4月20日」を帰国の日付だとしてしまったのだろうか?
しかし、その辺のことを理由にしながら、「1月20日」という日付にこだわったと思われる。
それで、とにかく「法衣」を讃える必要があるから、その諷経は行ったようである。その上で、鏡餅の食べ方だけれども、「水引湯」とある通りで、お湯に入れておいて柔らかくし(・・・実際には中々ならないけど)、それから赤小豆で調えたというから、今でいうところのお汁粉にして食べたようである(なお、お汁粉を雑煮だという地域もあると言うから、その影響も考えねばならないか?)。
なお、面山禅師はこの餅について、とにかく俗人が触れることを否定されるから、聖性を持った食べ物として捉えておられたことは間違いない。現代の我々も、特に思い出すべきことなのかもしれない。
以上、ごく簡単ではあるが、鏡餅に関わる記事として採り上げておいた。
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