つらつら日暮らし

普寂上人『菩薩三聚戒弁要』に見る分受論

この記事は、あくまでも普寂上人の『菩薩三聚戒弁要』を読んだ、という備忘録的な内容である。同書の中で、分受戒についての指摘があったので、それを見ておきたい。

もし摂律儀戒は、或は十重四十八軽戒を受持し、或はただ十重禁戒を受持し、或は十戒の中において、一戒二戒乃至九戒分受することを許す。又、在家出家護持おなじからず。下に至りて弁ずべし。

以上の通りなのだが、十重四十八軽戒の受持について、区々だということになっている。詳細は、後で弁ずるとは書いているが、具体的には「戒相を弁ず」の項目が該当するようである。

戒相とは即ち十重四十八軽戒なり、受者の意楽まちまちなり、或は軽重具さに受くるあり、或は唯十重禁戒を受得し、軽戒は隨分受学するあり、或は十重の中、一戒乃至九戒分に随ふえ受学するあり、又一々の戒を受学するにも、其持犯開遮重々交差、たとひ明律の人も、犯科を免るるもの尠し、今且らく略して十重禁の戒相を弁ず、其重軽二戒、一一の持犯開遮は大小の律蔵、諸師の疏に就いて詳かにすべし、
    「戒相を弁ず」項


どうも、こちらが詳細を論じた箇所のようである。要するに、菩薩戒の戒相は、十重四十八軽戒なのだが、受ける側の意楽(想い)は区々で、そのため、十重禁戒も受ける数が異なり、四十八軽戒もそれに準ずるとしている。そこまでは、他の教えでも容易に見られるところだが、上記の教えで興味深く拝したのは、「其持犯開遮重々交差」というところで、要するに十重禁戒の一々の持犯開遮が、交差することが有るということである。よって、一々の戒を受持するのみでも、考えなくてはならない、守らなくてはならない事柄が複雑だとしているのである。確かに、他の宗派の教えでも、例えば十重禁戒の「第十不謗三宝戒」については、適用範囲が広く、護持する時に注意が必要だという場合もあるが、普寂上人が仰っているのも、そのようなことであろう。

それから、以下の一節も見ておきたい。

分受〈分受は十戒の中一戒二戒乃至九戒、心のままに受るなり〉
    『菩薩三聚戒弁要』版本・34丁裏


この普寂上人の『菩薩三聚戒弁要』は、巻尾に語彙集が収録されていて、その1つに「分受」があったので、確認した次第である。ここからも、「分受」が基本、「十重禁戒」に係り、更には、受者の思いに従って受けていく様子が理解出来る。それにしても、受者の思いによって、「十重禁戒」の中から選んで受けるという時、具体的にはどういう手順で行われたのだろうか。

本書では、流石にそこまでの記載は無いようだが、1つ気になったのが「受縁」という表現である。つまり、受者にとって、受戒に到る縁があるという指摘である。

四に受縁とは、これに二あり、一に人縁、二に法縁。人縁は即ち戒師なり、戒師に三あり、一に真仏、二に聖人、三に凡師これなり、仏像・舎利等は発戒の縁弱し、前加行と修し、好相を得てのち、憑対すれば受を成ず、爾らざれば得戒せず、と。経疏に見えたり。法縁は戒羯磨なり。台疏に六本の羯磨を出せり。その後数本流行す。心に任て依用すべし。一本に局執するは、聖旨に順ぜざるべし。
    同上8丁裏~9丁表


以上の通り、受縁という箇所で説明があるのだが、ここで受戒の縁をもたらすのに、人縁と法縁とがあるという。人縁とは戒師のことである。法縁とは戒羯磨のことだという。戒羯磨とは、受戒の作法のことをいうから、ここでは、これまでに様々に紹介された作法から、その都度適したものを使えば良いという話である。

よって、普寂上人は受戒の作法、受戒する戒の種類など、かなり自由に捉えている様子が理解出来た。

仏教 - ブログ村ハッシュタグ
#仏教
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

※ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最近の「仏教・禅宗・曹洞宗」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事