如何なるか是れ僧。
師云く、鶏狗戒を持せず。
『仏光国師語録』巻6、『大正蔵』巻80所収
ご存じの方が多いと思うが、仏光国師とは鎌倉時代に来日した無学祖元禅師(1226~1286)のことである。そこで、無学禅師が指摘されることとしては、僧侶とは如何なる存在か?という問いに対して、端的に「鶏狗戒を持せず」としている。これは、中国の宋代、三宝に関する問いというのは、それ自体「公案」として機能しており、今回はその内「僧宝」についての問いとなっている。
そこで、ここで無学禅師が意図したところを読み解いてみたい。
まず、「鶏狗戒を持せず」とはあるが、この内、「鶏狗戒」は仏道以外の戒として認識されているかと思う。例えば、以下の一節などはどうか。
云何が菩薩、戒を修治するや。菩薩摩訶薩、禁戒を受持し、生天と為さず、恐怖を為さず、乃至、狗戒・鷄戒・牛戒・雉戒を受けず。
『大般涅槃経』巻26
以上である。つまり、「狗戒・鶏戒」などという戒を、菩薩は受けるべきではないと明言しているのである。更に、論書でも以下のような記述がある。
戒を疑う者は、仏の所説の戒を勝と為すや。鶏狗等の戒を勝と為すや。
『成実論』巻10
以上の通り、部派仏教の論書に於いても仏戒と鶏狗戒とが対比され、明らかに仏道と、それ以外という区分が成立していることが理解できよう。
諸仏・菩薩・辟支仏及び声聞の讃ずる所の戒、若しくは是の戒を行じ、是の戒を用ゆ。是れを智所讃戒と名づく。
外道戒とは、牛戒・鹿戒・狗戒・羅刹鬼戒〈中略〉、是の如き等の戒、智の讃ぜざる所なり、唐しく苦しみて善報無し。
『大智度論』巻22
今度は大乗仏教の論書になるが、こちらでも、やはり「狗戒・鶏戒」などは、仏道以外の戒として、智者からは批判の対象になると示しているのである。更に、これらの見解を意図しているかもしれない文脈として、以下の一節も見ておきたい。
戒に二有り。
一つは邪、二つは正なり。
一の邪とは、即ち是れ鶏狗等の戒なり。
二の正とは、即ち是れ十善道なり。
『四教儀』
このように、正邪でもって、仏道修行上の戒と、それ以外という区分をしていることが分かる(なお、天台智顗の『四念処』という文献でも、同じ見解に立っているので、『四教儀』はその影響か?)。以上のように調べてみると、この仏道以外の戒としての「鶏狗戒」については、中国天台宗で主に用いている印象である。
ただし、中国禅宗でも用いている。
払子を撃ちて、但だ鶏狗戒を持し、祖師禅を学せざれ。
『虚堂和尚語録』巻9
これは、中国臨済宗の虚堂智愚禅師(1185~1269)の上堂語であるが、こちらの場合、「鶏狗戒を持し」としているので、仏道以外の戒を認めている印象である。なお、無学禅師は修行中に、この虚堂禅師に参じていたことが知られるので、もしかするとその見解などを知った上で、敢えてその反対のことを主張したのかもしれない。そういうのは中国禅ではよくある話である。
さて、それでは、この「鶏狗戒」とは、具体的に何か想定されているものなのだろうか?詳しいことは良く分からないのだが、『一切経音義』巻3「邪行」項を見てみると、『大智度論』を引用しつつ(典拠そのものは未見)、やはり動物のような振る舞いで、一切の倫理性に欠ける様子だと定義されている印象である。よって、やはり仏道修行上の戒として相応しくないことになるのだろう。そして、以下のような問題点も指摘されている。
又た能く人をして二世の苦を得せしむ。牛戒を持し鷄戒等の種種の苦行を為すが如きは、現世の苦を受け、当に悪道に堕ちて後世の苦を受くべし。戒取、是の如し。
『大乗義章』巻5
このように、鷄戒(或いは、これを含む仏道以外の戒)については、「苦行」だと明言されている。そして、幾らそのような誤った修行をしたとしても、良い結果にはならないとしているのである。そこで、冒頭の無学禅師の見解としては、仏道以外の修行をしても、僧とは言えないという至極真っ当な教えになっている。だが、至極真っ当過ぎて、禅僧としての意志を図るのが、少し難しい。
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