つらつら日暮らし

巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』参究⑲(令和6年度臘八摂心短期連載記事19)

拙僧つらつら鑑みるに、「臘八摂心」で、道元禅師の『普勧坐禅儀』(流布本)について、様々な解説を行ったのだが、その際には参照出来なかった、巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』について、嘉永7年(1845)の写本を入手したので、参究することとした。なお、引用に際しては、カナをかなにするなど見易く改め、誤字なども適宜修正した。

当知正法自現前昏散先撲落 昏散は昏沈散乱の義なり、是の正法とは不思量底の正法じや、前に本来面目と有るがやはり同体異名じや、撲落は払ひ落すなりと註に有て今は払ひ尽すの心なり、故に枕子撲落地とも有るじや
    10丁表


巨海禅師の見解と、面山禅師『聞解』が絶妙に混じり合っている。その上で、「是の正法とは不思量底の正法じや」は巨海禅師の見解だと見て良い。また、「故に枕子撲落地とも有るじや」も同様だが、「枕子撲落地」とは一体?典拠としては『大慧普覚禅師宗門武庫』の石霜慶緒禅師の偈頌らしい。巨海禅師は『大智禅師偈頌弁解』でも使っている。夜寝ている内に、枕が落ちる様子だという。


若従坐起徐徐動身安祥而起不応卒暴 初の坐定の左右揺振等は麁より細に入、今は細より麁に入を示さる、卒暴はひよつとと云義にてぼつそつの義、安詳の裏なり可慎ゝゝ、自他の道業を妨ぐなり
    10丁表


こちらでは、「卒暴はひよつとと云義にてぼつそつの義、安詳の裏なり可慎ゝゝ、自他の道業を妨ぐなり」が巨海禅師の見解である。それで、「卒暴」の説明に終始しているが、これを「ひよつと」という意義だとしているが、これは、「うっかり」ということで、更には「ぼつそつ」とは「勃卒」である。よって、安詳の裏(反対)であり、急いで立つ様子を批判され、それが「自他の道業を妨」げるとしているのである。

嘗観超凡越聖坐脱立亡一任此力矣 此の非思量の堺は超凡越聖、十界一如の妙観じや、夫れ故に達磨は端坐して逝すと有、又立亡とは三祖は大樹の本に立て化、又鶴山通は紅焔の中に立て終る箇羊に臨終に自在なるは皆な此の三昧力の験しなり
    10丁表


これは、ほぼ全て『聞解』の見解である。その説明だと面白くないので、各典拠を示しておきたい。

・達磨は端坐して逝す⇒「遂に不復た之を救わず、端居して逝く」(『景徳伝灯録』巻3)などとある。
・三祖は大樹の本に立て化⇒「於法会の大樹下に於いて合掌して立ちて終る」(同上)などとある。
・鶴山通は紅焔の中に立て終る⇒「鶴山通」は『聞解』で「霍山通」とある。ただし、明治時代の『冠註普勧坐禅儀』だと「鶴」になっているが、「霍」が正しくて、潙仰宗の仰山依寂禅師の法嗣とされる。『禅林類聚』巻6では仰山禅師と問答をしている。しかし、典拠は不明。


以上の通りである。霍山通和尚の件が残ったが、何故か江戸時代以降の宗門では、当然のこととして採り上げている。よって、これらが正法の働きとして理解されているのである。

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