所謂坐禅非習禅也 坐禅と云は広くかゝる故諸流の習禅とは別なるを示さる如何んとなれば下の句に唯――と有る通り四威儀共に皆な此の三昧の坐禅なれば妄想も不除不求真なれば下の文ゑ移る
9丁表
習禅ではないという意義が余り出てないのと、四威儀共に皆、三昧の坐禅だという話がちょっと気にはなるが、「妄想も不除不求真」についてもどうなのか?とはいえ、道元禅師は「妄想」自体を中心に扱うことは少ないので、この辺は掘り下げようがない。『宝慶記』に如浄禅師の教えとして、坐禅時に五欲・五蓋を除かなければならないという指摘があった。そうなると、この点はどう理解されるべきか。しかし、続く「安楽の法門」との関連もあるようだ。
唯是安楽之法門也 動用せぬ非思量地に安住する故に――と云之法門とは一切の分別門を離れ無上道に入故に法門と云なり、此故に初は生死を脱する為に修行すれども后には参禅の為に生死せよと永祖の示されしも実に所求の念なければ只是安楽の法なり、然し一点も名利の念あらば実の安楽にあらず
〈※頭註:広録此の語を挙して頌有り曰く、非思量処思量を絶し切に忌む将玄喚作黄剥地識情倶に裂断すれば钁湯炉炭也、只此非思量の境は識情裂断故に識情にて造作する三界六道は一時に消殞す〉
9丁表~裏
「動用せぬ非思量地」に安住するのが、安楽の法門である。しかも、この「法門」とは、一切の分別門を離れた無上道であるという。この辺は、捉え方としては間違いは無い。ただ、面山禅師『聞解』はここを「安楽」の字解として展開しているので、やや趣きが異なる。そして、巨海禅師の見解としては、前段の解釈を思うと、ここもどうかとは思う。
続く文章で、道元禅師の教えを引用されているけれども、直接の典拠は分からない。また、頭註で、以前に紹介をした『永平広録』巻7-524上堂からの一節を示しているが、これはここにあっても意味は無い。むしろ、前段で良かった。
究尽菩提之修証也 究尽はをしきわめてと云心、菩提は此に道と云、修証は経師論師の言如くに非ず、永祖の心は証上の修なる故に初心弁道即本証の全体なり、故に弁道話に曰それ修証二と思へるは外道の見なり、仏法は修証これ一等なりと云々、又曰妙修を放下すれば本証手のうちに満てり、本証を出身すれば妙修通身にをこなはると云々
9丁裏
ここは、実は相当に注意して理解すべき教えである。何を注意すべきかは、既に【流布本『普勧坐禅儀』参究6(令和5年度臘八摂心6)】という記事で書いておいたため、ご参照願いたい。
それから、この一節の大事さは、修証観の確認をしていることになる。細かいことは『聞解』のままなのだが、『弁道話』から「本証妙修」を導いているけれども、江戸時代には「本証妙修」という語句はほとんど考えられていない。むしろ、「証上の修」として、「妙修」中心の理解だと考えた方が良い。
そして、意義としては坐禅修行以外の何ものでもないのである。
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