つらつら日暮らし

巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』参究⑳(令和6年度臘八摂心短期連載記事20)

拙僧つらつら鑑みるに、「臘八摂心」で、道元禅師の『普勧坐禅儀』(流布本)について、様々な解説を行ったのだが、その際には参照出来なかった、巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』について、嘉永7年(1845)の写本を入手したので、参究することとした。なお、引用に際しては、カナをかなにするなど見易く改め、誤字なども適宜修正した。

況復拈指竿針鎚之転機 此は皆祖々臨機応変の働きも此非思量の道力より出ることを示さる、先づ四件は指竿は倶胝の一指よ、竿は釣竿を下して人の為にするなり、南泉は百尺竿頭如何が進歩せんと示された、阿難は門前の刹竿を倒却着せよとなり、針は龍樹針水投合の因縁などよ、鎚は世尊陞座文殊白鎚等の如し、皆夫々に機転する妙用も此の三昧の力より出るじや
    10丁表~裏


こちらは、ほとんど面山禅師『聞解』の略述となっている。よって、ここで問題になっている「指竿針鎚の四件」の一々について検討しておきたい。

・指⇒一指禅(倶胝和尚)
・竿⇒釣竿(船子徳誠禅師と夾山善会禅師)・百尺竿頭(南泉普願禅師)・刹竿(阿難尊者)
・針⇒針水(龍樹尊者)
・鎚⇒陞座時の白鎚(世尊と文殊)


以上である。倶胝和尚の一指禅、我々的にはとても有名だが、最近はどうなのだろうか?

 天龍、一指を竪てて之を示す、倶胝、当下に大悟す。後に凡そ問有らば、只だ一指を竪つ。一りの供過童子有り。人の他事を問うのを見る毎に、也た指を竪て祇対す。
 人有りて倶胝に謂いて曰く、和尚、童子を遮ること也た得べからず。亦た仏法を会す、凡そ人有りて他に問う。皆、和尚の如く指を竪つ。
 倶胝聞き得て、一日、潜かに刀子を将ちて放ちて袖中に在り。童子を喚びて近前し来れ、と。你、也た仏法を会すや、是か否か、と聞く。
 云く、是。
 倶胝曰く、如何なるか是れ仏。
 童子、便ち指頭を竪起す。
 倶胝、一刀もて斫断せらる。
 童子、叫喚し走り出づ。
 倶胝、遂に童子を喚びて、且く来たれ。
 童子、回頭す。
 倶胝曰く、如何なるか是れ仏。
 童子、覚えずして将に手を起てんとするも、指頭を見ず。忽然として大悟す。
 倶胝説いて云く、我れ天龍の一指頭禅を得て、一生、用いても尽くさず。
    大慧宗杲禅師『正法眼蔵』巻2


これが一指禅だが、今ならコンプライアンスに・・・それから、『聞解』では「針」に洞山良价禅師の一件を挙げている。

師、把針の次で、洞山問う、「甚麼をか作す」。
師云く、「針を把る」。
洞云く、「把針の事、作麼生」。
師云く、「針針相似たり」。
洞云く、「三十年の同行、這箇の語話を作す。豈に与麼の工夫有らんや」。
師云く、「長老、作麼生」。
洞山云く、「大地火発底の道理なり」。
    『聯灯会要』巻20「潭州神山僧密禅師」


でも、これは巨海禅師は採用せず。何故、こういった略し方になったのか、ちょっと分からないのだが、これらが全て、坐禅の道力なのだと承当すれば良いといえる。

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