その中でも、個人的には『遺教経』を読む機会が多いので、この経典について考えてみたい。
そもそも、『遺教経』とは通称であり、詳しくは『仏垂般涅槃略説教誡経』という。以前も指摘したことだが、この「垂」の字は、例えば「口宣を垂らす」というような意味合いに見えるところ、ここでは「垂んとして」と読み、仏陀が「般涅槃に垂んとして(そろそろ入滅しそうなので)」略説された教誡を集めた経典ということになる。
ただし、詳しい名前は長いと思われたのか、或いは、分かりやすかったのが『遺教経』だったからなのか、天親菩薩造で真諦三蔵訳の註釈書は『遺教経論』と名付けられている。それから、禅家では『仏祖三経』と称して『四十二章経』『遺教経』に『潙山警策』を加える場合があるが、この件について疑問視する意見があったことを思い出した。
仏祖三経〈四十二章・仏遺教及び壇経を以て彙集する者有り、壇経を列ねず、之を潙山警策を以て易える者有り、未だ知らず此の中、何本を用いるや〉
『雲棲法彙』「学経号次」項
上記の通り、中国明代末期の雲棲袾宏(1535~1615)の見解では、『三経』とは、『四十二章経』『遺教経』に、『六祖壇経』だったというのである。でも確かに、『壇経』は「経」字が付くので、この見解、決して無茶なことを言っていない。ただし、他の二経典に比べると、『六祖壇経』は長すぎる気がしていて、それなら『潙山警策』の方がまだ短いと思う。
他に、このことを指摘している文章はあるのだろうか?やはり清代初期に編集された『仏祖三経指南』という註釈書では、編者の為霖道霈禅師(1615~1702)が、普通に『潙山警策』を挙げているので、この段階では、それが普通だったといえよう。むしろ、『六祖壇経』を入れる場合が見当たらず、かえって以下の説示を見出した。
叢林中、四十二章経・遺教経・潙山警策を以て、之れを仏祖三経と謂う。
『潙山警策註』
こちらは、中国元代の至元丙戌(1286年)に書かれた文章なので、この時までには『仏祖三経』という組み合わせがあったということなのだろう・・・あれ?話がずれてしまっている。それで、さっきから『仏祖三経指南』を指摘したのは、『遺教経講話』(丙午出版社・大正10年)を著した高嶋米峰(1875~1949)が、同『指南』のみを友として学んだというが、確かに中国での理解としては、用いるのに意味があるといえよう。
法界の真身、本と起尽無し、
悲願して物の為に、去来有るを示す、
仏遺教経と言うは、仏仏滅に垂んとして、皆な此の経を説く。
此れ本師釈迦文仏の遺教経なり。
為霖道霈禅師『遺教経指南』
最初の4句は、法身の仏陀は、本来出没することはないが、慈悲の心を持って、衆生のためにあえて、去来(誕生・入滅)を見せてくれたのだ、という讃歎文である。後半の句は、『仏遺教経』を説明して、諸仏が入滅する時には、どの仏陀もこの経を説くとし、今ここにあるのは、本師釈迦牟尼仏の遺教だとしているわけである。
大乗『大般涅槃経』だと長大に過ぎるし、一方で、阿含部に入る『遊行経』では、釈尊の最期の旅の様子は分かるけれども、『遺教経』ほどの教理的なまとまりがない。よって、中国の禅宗では手頃な経典として、『遺教経』が尊ばれたと思われ、実際のところ現代の我々もまた、その恩恵をこうむっているのである。
そういえば、『仏祖三経指南』「自序」では、「是に於いてか、双樹の間に於いて無余涅槃に入るに扶律譚常を唱えて、以て最後の深誨、遺教と為すは是れなり」としており、『大般涅槃経』に対して評されることが多い、「扶律譚常」を『遺教経』にも当てはめていることが分かる。
以上のような感じで、『遺教経』を中心に、少しだけ『仏祖三経』についても触れたけれども、古来より良く読まれてきた経典だということは理解していただけたかと思う。拙ブログでも、この時期には学ぶようにしていたい。
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