つらつら日暮らし

神道教義書『善悪報応論』に見る戒律観

手元に、明治期の神道の教義書である『善悪報応論』という版本がある。ただし、著者などは不明で、巻末の奥付には「大教院」とのみ書かれている。そうなると、一般的に「大教院」は明治5~8年というごく短い期間にのみ存在したそれを意味するのか?それとも、明治8年の解散後に、各宗派・教団などで、独自に「○○宗大教院」などを作ったが、それを意味するのか、当方の拙い調べでは分からなかった。

ところで、本書だが、読む前から、神道の教義の中に善悪の基準となる戒律的要素や、その報応を生む主体などがどう考えられているのかが気になった。その問題意識を元に見てみると、以下のような一節があった。

又神事幽事とは同義にて鬼神を統治し霊魂を賞罰する幽界の神律なれは神祇の幽より執行ひ給ふ冥府の大政是なり
    『善悪報応論』1丁表~裏、カナをかなにするなど見易く改める(以下、同じ)


ここを引いたのは、「神律」という表現が見えたためである。もちろん、どういう意味かは分からないのだが、日本の神が定めた律ということなのだろうか?そして、その内容は、霊魂を賞罰するという。

忠孝の倫を乱り邪術を行て世俗を惑し人を害して己を利し衣食の道を絶ち義を忘れて盗を為すの類凡て人道に背ける奸人侫者乱臣賊子の霊魂は乃ち冥府の神律に任に邪鬼の部属となりて直に泉国に逐儺はれ或は畜類に転生し或は異形に変生して永世不朽の苦悩を受るなり
    前掲同著4丁表


世俗的な因果応報論というべき内容であるが、「冥府の神律」という表現が見えたので、こちらも参照してみた。そして、やはり霊魂を罰するという話が、「冥府の神律」なのだろうと思うが、その罰する時のあり方が、世俗的因果応報論になっているわけである。この辺は、やはり世俗化した仏教教義の影響というべきなのだろうか。

それから、もう一つ気になる表現がある。

固より此顕世は人の身心を鍛錬し善悪を試験するの大戒場に非すして何そ故に人たる者は最第一に此大戒場の真理を能く会得して神の賦へる本性を踏行ひ常に愧ちす慎独の心を一にし百年の戒場に立て性善の本分を尽すへし
    前掲同著5丁裏~6丁表


「戒場」という表現が見られる。ただし、この現世自体が「大戒場」というわけではないとしており、あくまでも、「百年の戒場」という表現からは、我々自身の身心・霊魂自体が、戒場と成り行くといえる。つまりは、正しく生きることを、この身心に求められていることになるだろう。

と思ったら、以下のような表現が見られた。

此大地は身心鍛錬の大戒場なることを知さるか故に神を慢し人を侮りて忠孝の大道を度外に措き庶物を暴殄するにも至るなり
    前掲同著6丁裏


いや、この大地はやはり、身心鍛錬の大戒場だということになっているので、だとすると、先ほどの文章への理解がおかしいのだろうか。でも、もしかすると、先ほどの「神律」の観念を会通させると、あくまでも顕世がその基準にあるのではなく、「冥府の神律」が基準となるから、この顕世自体から見ていく時の大戒場とはならないが、冥府から見られた大戒場になるということになるのかも知れない。

とはいえ、そもそも比較すべき他の思想などが分からないので、何とも言えない。いや、本気で神道教義書を探っていくしか無いのだろうか。でも、分からないから、とりあえず今日の記事はここまで。

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