まず、「沙弥戒」は、道元禅師撰とされる『出家略作法』に於いて以下のように位置付けられている。
次に戒の作法を授く。
次に懺悔・三帰・五戒、尽形受。
次に沙弥十戒、尽形受。
次に菩薩三聚浄戒〈今身従り仏身に至るまで〉。
次に根本十重禁戒〈今身従り仏身に至るまで〉。
各三拝して之を受く。後、仏を礼して去る。
『出家略作法』
ここである通り、「在家五戒」を授け、菩薩の三聚浄戒・十重禁戒を授ける間に「沙弥十戒」を授けている。しかし、ここで「沙弥十戒」を授ける意義とは何だったのだろうか?そもそも、沙弥戒とは、出家を希望する者がまだ、20歳に達していない時などに、見習い僧侶として指導を受けるために授けられるものである。20歳に達していれば、「比丘戒」を受けて正式な比丘となり、その後5年間指導を受けてから「阿闍梨」となるのである。
それで、「比丘戒」はその時の僧伽(出家受戒の儀式用に臨時に作られた10人の僧伽であり、その10人の比丘が「三師七証」になる)の全員が納得する必要があり、よって羯磨(会議)が行われるのである。ただし、沙弥戒の時には羯磨を要せず、或る意味、特定の比丘が私的に行えるものであった。そのことを踏まえて、日本の曹洞宗の状況は後述するものの、中国の禅林などではどうだったのだろうか?
『禅苑清規』を参照すると、巻9に「沙弥受戒文」の一項があり、禅林内で行われた剃度作法が示されている。その場合は、(剃髪や授衣鉢等を行うが、ここでは採り上げない)三帰を唱え、そして「五戒」を授け、続けて「沙弥十戒」のみを授けている。その「五戒」と「沙弥十戒」との関係は、以下の通りである。
善男子、五戒を入法の初因、三塗を出ずるの元首と為す。次に沙弥十戒を受けるは、即ち形、法儀を備え、此に勤策と称す。師に依りて住するに、利を受くること僧と同じきなり。是れを応法沙弥と為す、応当に頂受すべし。
『禅苑清規』巻9「沙弥受戒文」参照
結局、「五戒」というのは、仏法に入るための最初のきっかけとなるものであると同時に、地獄などの三途(三悪道)に生まれ変わらないようにするための原因となるものだとしている。よって、出家・在家関わらずに受けるのである。続いて「沙弥十戒」を受けるのは、形(僧形)を正しくして、師に随って行動する限りに於いて、僧と同じ利益を受ける「応法沙弥(沙弥の分類は【沙弥の分類について(備忘録)】をご参照願いたい)」になるという。この辺は、供養に呼ばれるかどうかという話や、沙弥を供養して比丘と同じ結果が衆生として得られるかどうかなどの話なども関連して考えるべきなのだろう。
それで、比丘となる時には、律院で比丘戒を受ける必要があったはずである。
さて、問題は日本の曹洞宗の場合である。道元禅師の場合、『対大己五夏闍梨法』が存在しているけれども、これは「沙弥」とは書いていないため、比丘となってから5年未満の者に適用された可能性が高い。しかし、『正法眼蔵』「安居」巻を見ると、沙弥が山内にいたことを否定しない。
そこで、問題になるのが、以下の「法語」である。
幼歳より師に従うは、上古の勝躅なる歟。行玄禅人、十四歳にして僧と做り、我が衆席に随って、朝参暮請す。夙に般若の力有りて致す所なり。
『永平広録』巻8-法語13
このようにあって、道元禅師の会下には年若い行玄禅人という者がいたようだが、14歳で「僧」になったという。問題は、この時「沙弥」なのか?「比丘」なのか?そういう区分が適用されないのか?という点が、分からないことである。なお、当時から動静大衆一如にして、沙弥も修行に組み込まれていたとすれば、実質的に沙弥も比丘も無いとはいえる。
ただし、道元禅師の『出家略作法』を見ると、授けられる袈裟が「授袈裟」とのみなっていて、いわゆる「三衣」と表記されていないことに注意したい。これは『禅苑清規』「沙弥受戒文」でも共通なのだが、『禅苑清規』の場合は巻8に「誡沙弥」項に「五條(正に五條縵衣に合披す)を准備すべし」とあって、「五条の縵衣」であるという。よって、三衣とは作り方も違っていたはずである。
いわば、道元禅師の時には、沙弥はほぼ、比丘と同じ様な格好であった可能性が高いが、五条袈裟のみであったとすれば、作務などは行っていたはずだが、やはり立場を変えていた可能性があるのである。なお、そうなると、何時のタイミングで「三衣」を授けていたのか?とか、「伝戒式」との関連はどうか?といったような問題を残す。
以上は試論的に考察したのみだが、もう少しちゃんとした考察については時間を置いて行いたい。
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