・第五十二祖、永平弉和尚、元和尚に参ず。一日請益の次で、一毫衆穴を穿つの因縁を聞き、即ち省悟す。晩間に礼拝し、問ふて曰く、一毫は問はず、如何なるか是れ衆穴と。元微笑して曰く、穿了也と。師礼拝す。
師、諱は懐弉。俗姓は藤氏。謂ゆる九條大相国四代の孫秀通の孫なり。
『伝光録』第五十二祖章
・祖翁、永平二世和尚、諱は懐弉、洛陽の人。姓は藤氏、九條大相国の曽孫なり。
『洞谷記』「洞谷伝灯院五老悟則并行業略記」
……号について何も書いていない。そこで、懐弉禅師の伝記は、大体道元禅師の伝記にくっついて、同じ文献に載るのが普通だけれども、『永平寺三祖行業記』には、道号の提示はない。ただ、何故か知らないが、江戸時代になると、『日域洞上諸祖伝』(1694年刊行)や『日本洞上聯灯録』(1742年刊行)で、こぞって「号は孤雲」的記述が見えるため、この頃には一般的だったものと思われる。しかし、不可解である。一体、この江戸期の灯史編集者は、何をもって号を決めたのであろうか?
無論、一番理解しづらいのは、最初に同時代で最初に編まれた『日域曹洞列祖行業記』(1673年刊行)の編者・懶禅舜融禅師である。懶禅は興聖寺に住持した人でもあり、江戸初期の学僧・万安英種禅師の法嗣でもあるから、その辺から学んだ可能性があるが、それにしても不可解である。
一方で、義介禅師の道号とされる「徹通」は、普通に用いられていたようで、『瑩山清規』に見える先師徹通忌疏には、「今月十四日、恭しく先師本州大乗開山价公徹通大和尚の遠忌に遇う」とされているので、瑩山禅師も本師である義介禅師を、「徹通大和尚」と呼んでいたことが分かる。よって、義介禅師は道号に値する名を用いていたわけである。太祖御自身も道号として「瑩山」を用いられていて、そこに問題はなかったはずである。よって、懐奘禅師にそれが見えないのは、道号の不在を証明するように思うのだ。
なお、関連して以下の一節を見ておきたい。
巣雲 懐昭等
拝賀
『正法眼蔵』「安居」巻
これは、道元禅師が拝賀の牓の書式を示したものであるが、その一行目に件の「巣雲・懐昭」という名前が見える。これは、道元禅師が「孤雲懐奘」をもじって使った可能性もあるといえる。ただ、もし道号が無かったとすると、これは別の人の名前を2人書いたか、完全に道元禅師の創作という可能性も残る。
ところで、「孤雲」という名称については、古写本『建撕記』に以下のような一節が見える。
○同(寛元二年九月)七日、宇治の興聖寺より木犀樹来る。義準上坐送り到る。而今孤雲の前栽と云云。
ここには、『建撕記』が編まれたであろう15世紀には、永平寺寺内に、「孤雲(閣?堂?塔頭?)」と呼ばれる建物があり、そこに、宇治興聖寺から贈られてきた「木犀」の樹を植えるというのである。ここからは、庭に面した建物があり、それが孤雲と読まれた可能性があるということである。ただし、これは『建撕記』を遡れないようなので、なかなか難しい。
また、懐奘禅師の「塔」の可能性は無い。それは、弟子達への遺言として、御自身の御遺骨は道元禅師の傍らに埋葬するように訴えておられる。よって、この「孤雲」という建物の名称と、懐奘禅師とは一致しない。
そして、『正法眼蔵』の書写を始めとして、写本などの御真筆では「孤雲」を自称されない。そして、瑩山禅師が残された様々な言葉にも、「孤雲」は確認できない。とすれば、江戸時代に孤雲を道号と判断する契機は、永平寺にあったという「孤雲」という建物の名称を、そのまま用いてしまった江戸時代の灯史編集者の勘違いとも指摘できるだろう。
この記事は、とりあえず参照できる資料を使って書いたので、外に資料が出て来れば、その都度改める予定である。
#仏教
最近の「仏教・禅宗・曹洞宗」カテゴリーもっと見る
最近の記事
カテゴリー
バックナンバー
2016年
人気記事