此ゆへに若仏道を修行せんと思はん人は、ゆめゆめ方便の道に入事なかれ、いたづらにらうして功ある事有べからず、直に円頓の法門に入ば、ちからをついやさずして、すみやかに本覚にいたるべし
『永平和尚業識図』「遺教に依りて仏乗を論ずる篇 第七」
このように、仏道修行に入ろうと思う場合は、方便の道に入ったところで、無駄に苦労するだけであるため、直に円頓の法門に入り、力も入れずに、速やかに「本覚」へ到るべきだという。つまり、自らが生まれながらに具えている仏陀の悟りを否定しなければ、修行などを経ずとも良いのである。
・・・まぁ、今日は4月1日でエイプリルフールなので、注意喚起も含めて記事を書いているのだが、本書は道元禅師に仮託されてしまった偽書である。詳細は、上掲の拙Wikiをご覧いただければと思う。道元禅師が実際に示された「本覚」に関する教えは、以下の通りである。
いはんやいまの道は、本覚を前途にもとむるにあらず、始覚を証中に拈来するにあらず。おほよそ、本覚等を現成せしむるは仏祖の功徳なりといへども、始覚・本覚等の諸覚を仏祖とせるにはあらざるなり。
『正法眼蔵』「海印三昧」巻
こちらは、始覚・本覚とを対比しつつ説いているため、『大乗起信論』などの影響も考えねばならないが、どちらにしても本覚を現成させるのは仏祖の功徳であって、衆生がそのままに得るとはしていないのである。更に以下の一節も見ておくべきであろう。
しかあるに、すべていまだ仏法を見聞せざるともがらいはく、野狐を脱しをはりぬれば、本覚の性海に帰するなり、迷妄によりて、しばらく野狐に堕生すといへども、大悟すれば、野狐身はすてて本性に帰するなり。これは、外道の本我にかへる、といふ義なり、さらに仏法にあらず。
同上「大修行」巻
道元禅師は、「百丈野狐話」への解釈として、野狐が身体を脱して、「本覚の性海」に帰するという者があったようだが、それを「外道の本我にかへる」意義と同様だと批判している。これは、「先尼外道」の見解への批判と軌を一にしている。
つまり、以上のことから、道元禅師は固定的実体や真実の場所としての「本覚」を完全に否定しており、あくまでも仏祖の功徳として現成されるとはするものの、それも諸覚そのものを仏祖としているわけでは無いという見解に準えれば、仏祖とは「覚」では無くて、むしろ「証」であり、行を通して明らかにし続けるという、「証仏」を基本としているのである。
その意味では、「ちからをついやさずして、すみやかに本覚にいたる」ことも無いし、どこまでも難値難遇の仏法を聞き、自らの身心を費やして修行しゆくところに「証仏」されるから、「覚」の問題では無いのである。
ということで、今日という日に因み、道元禅師に仮託された偽書を、批判的に学んでみた。しかし、ここまででなくても、全く関係の無い教えを、祖師方に結んでいる例は決して少なくない。拙ブログでは以前から、そういった問題点を指摘したが、今後も同じような記事を書いていきたい。
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