若し人有て問て云く、「爾か、親教師、其の名、何ぞや」。
或は問う、「汝、誰が弟子ぞと」。
或は自ら事至ること有て、須く師の名を説くべきは、皆、応に言ふべし、「我れ事至るに因て、鄔波駄耶の名を説く。鄔波駄耶の名は某甲なり」。
西国・南海、我と称する、是れ慢詞ならず、設令、汝と道は、亦た軽称に非ず、但だ其の彼此を別んと欲す、全く倨傲の心無し、並びに神州の将て鄙悪と為すに不ず。若し其の嫌はば、我を改て今と為す、斯れ乃ち咸く是れ聖教なり、宜く之を行ずべし、雷同と皂白を分けること無きを得ず、爾か云ふ。
『南海寄帰伝』巻3・5丁表~裏、原漢文、段落等は当方で付す
ここの問いは、結局、或る比丘が「あなたの師匠は誰ですか?」と聞かれているのである。そこで、もし、答えるのであれば、「我は、事が至ったからこそ、師匠の名前を示す。師匠の名前は○○である」というべきだという。この「鄔波駄耶」とは梵語の「ウパードヤーヤ」を音写したものである。
そこで、ここだけであれば大した話では無いのだが、義浄は「西国・南海」で、自分のことを「我」と呼ぶのは「慢詞」ではないとしており、「汝」というのも軽んじた名前では無いという。これは、ただ、彼とこれとを分けて表現するのみであり、傲った気持ちなどは無いという。いわば、二人称などに、敬称が無いと述べているのだろう。
ただし、もし、こういう表現が嫌なのであれば、「我」を「今」と時間表現にする案も提示しており、それも聖教の教えに従ったものだとしている。
ところで、最後に「雷同と皂白を分けること無きを得ず」とあるが、「雷同」は異なっているのに同じものだと扱うことであり、「皂白」は「善悪」の意味だという。よって、どのような表現が良いか、雷同的なものと、白黒付けるべきことを分けないことがあってはならない、ということなので、義浄としては様々な呼び方は、従うべきルールが有るといいたいのだろう。
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