いま提婆達多、かさねて三逆をつくれり、一逆つくれる罪人の苦には、三陪すべし。しかあれども、すでに臨命終のときは、南無の言をとなへて、悪心、すこしきまぬかる。うらむらくは、具足して南無仏と称せざること。阿鼻にしては、はるかに釈迦牟尼仏、帰命したてまつる、続善ちかきにあり。
12巻本系統『正法眼蔵』「三時業」巻
提婆達多は、釈尊の身内だったが、どうも信仰を異としていたようで(他には、律解釈の問題など)、教団を分けてしまった。しかも、ついでに色々とやらかしたと伝える仏伝もあって、結果的に「五逆罪」の内3つを犯したという。よって、道元禅師は、本来的に「一逆」でもとんでもない地獄の責め苦があるけれども、その三倍だと述べたのである。その出典も色々とあるようだが、それは別の記事にしたい。
しかし、責め苦三倍・・・何だか、クイズダービー(古い?)のようになってきた。
話を戻すが、道元禅師はこの提婆達多が、臨終に「南無」と唱えたことから、悪心が和らぎ、阿鼻地獄に落ちた段階で、釈尊に帰依したので、その後に善行・善果が続く可能性を指摘している。もちろん、「南無仏」「南無帰依仏」「南無釈迦牟尼仏」と唱えた方が効き目が強いことはいうまでも無い。しかし、「南無」だけでも効き目がある。
これは、「南無」という言葉の意味を考えてみればすぐに理解出来る。
南無とは帰命なり、救我なり。帰命とは命を以て十方の諸仏に帰投するなり。
吉蔵『法華義疏』巻4
この「南無」とは「帰命」であり、その内容は「命を以て諸仏に帰投すること」という時、我々自身の吾我は捨てられ、悪心の根源である我々の煩悩の発生を抑えることになる。よって、「南無」だけで効果があるといえる。昔は困ったことがあると、「南無三」などと唱えた。これは、「南無三宝」の略である。ここまで唱えるとその功徳は「南無」よりも遙かに大きい。それこそ、道元禅師の『正法眼蔵』「仏道(道心)」巻は、三宝への帰依を説く巻だが、このようにも書いてある。
そのときを、すでに生のをはりとしりて、はげみて、南無帰依仏、ととなへたてまつるべし。このとき、十方の諸仏、あはれみをたれさせたまふ縁ありて、悪趣におもむくべきつみも転じて、天上にむまれ、仏前にうまれて、ほとけををがみたてまつり、仏のとかせたまふのりを、きくなり。
「仏道(道心)」巻
これは、「南無帰依仏」を「南無阿弥陀仏」に、「十方の諸仏」を「阿弥陀仏」に変えてしまうと、ほぼ、浄土教での往生理論と同じになることは良く知られたことだが、とにかく仏道の観点で、大きな功徳があることは知っておいて良い。しかも、三宝ではなく一仏でも十分である。よって、我々は「南無」の言を忘れず身に付けておかねばならないのである。1つは、我々の煩悩の発生を抑える。今ひとつは、諸仏の加護を受けて仏道を成就できるためである。
そこで、拙僧などは最近、こんな唱え方をしている。「南無釈迦牟尼仏・南無正法眼蔵・南無両祖大師歴代祖師」。曹洞宗的な三宝への帰命といえようか。
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