復た病人をして彼の仏名を称え、十念成就し、与に三帰を受け、広大懺悔せしむ。懺悔し畢已りて、復た病人の為に菩薩戒を受く。若し病人、困じて言うこと能わざれば、余人、受、及び懺悔等を代わり、不至心を除く。然るに亦た罪滅して菩薩戒を得ん。既に受戒し已りて、彼の病人を扶けて、首を北にして而も臥せ、面は西方を向き、開目閉目して仏の三十二相、八十随形好、乃至十方諸仏を諦想すること、亦復た是の如し。又た其の為に四諦因果、十二因縁無明老死、苦空等観を説く。
以上のようにあって、阿弥陀仏への信仰を説く最中に、菩薩戒授与が行われていることが分かる。差定的なものを挙げれば、以下のように進む。
・十念
・受三帰
・広大懺悔
・受菩薩戒
・観仏相
・法話
授ける戒は、おそらく「三帰戒・三聚浄戒」だったのであろう。「四衆」を対象というから、細かな戒本は授けられなかったと思われるし、何よりこの場は臨終行儀としてあるから、そこまで長大な時間をかけての授戒などは出来なかったはずである。それが証拠に、「困じて言うこと能わざれば、余人、受、及び懺悔等を代わり」とあって、他の者が代理に受けても良いという指摘まである。
代受ということになるけれども、これが『臨終方訣』に見えるということは、臨終に授戒することの意義が、日本以外でも強調されていくように思う。しかも、当の本人が明確に戒を受ける際のお唱えが出来なければ、他の者が代わって良いというのであれば、ここから、代受としての死後の授戒、或いは「亡戒」としての授与も、全て肯定されていくように思う。
そして、今回この箇所を読んでいて、やはり「菩薩戒」というのは「尽形寿」ではなくて、「従今身至仏身」としての位置付けが大事なのだとも理解出来た。現世に於ける阿羅漢果の成就を究極の理想とする声聞戒にあっては、臨終の授与には何の意味も無い。しかし、生まれ変わり死に変わりして菩薩としての行願を成就することを支える菩薩戒としては、臨終に授与しても問題無い、それどころか来世への不安を除き、更なる修行をも励ます意味が付与されるのである。
簡潔な一文であったが、学びとしては大いに参考になった。そして、ここから、他の文献に於ける「代受」の探索も進めるべきであると思った。何か見出すことがあれば、また記事にしてみたい。
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