尸羅とは、好んで善道を行じ、自ら放逸ならざる、是を尸羅と名づく。或いは戒を受けて善を行じ、或いは戒を受けずして善を行ずるも、皆、尸羅と名づく。
尸羅とは、略説すれば、身と口との律儀にして八種有り。不悩害、不劫盗、不邪婬,不妄語、不両舌、不悪口、不綺語、不飲酒、及び浄命なること、是を戒の相と名づく。
若し護らずして放捨するは、是を破戒と名づく。この戒を破する者は、三悪道中に堕つ。
若し下の持戒をせば人中に生じ、中の持戒をせば六欲天中に生じ、上の持戒をし、また四禅・四空定を行ずれば、色・無色界の清浄天の中に生ず。
上の持戒に三種有り、下の清浄なる持戒は阿羅漢を得、中の清浄なる持戒は辟支仏を得、上の清浄なる持戒は仏道を得る。著せず、猗らず、破らず、欠けざるは、聖の讃愛する所、是の如きを上の清浄なる持戒と名づく。
若し衆生を慈愍するが故に、衆生を度さんとするが故に、また、戒の実相を知るが故に、心に猗著せず。この持戒の如きは、将来、人をして仏道に至らしむ。是の如きを名づけて、無上仏道戒を得ると為す。
龍樹菩薩造『大智度論』巻13「初品第二十一尸羅波羅密義」
まぁ、なんとなくだが、普通だな。いや、基本かな?まず、「尸羅=戒」の定義として、善い行いをするということ、それ以外にないという辺りは、本当に普通。社会的に、或いは仏教教団的には当然に、何をもって「善」とするかが、共有された時代だからのだろうか。現代こそ、何をもって「善」とするか?が、不明瞭なところがあって、混迷を深めていると思う。
また、持戒と破戒とで、報いが異なっているという点も、非常に理解しやすい。まず、護るべきことは、行いと言葉(身と口)であり、兎角外面的なことに於いて規定されている。そして、それは、相手を悩ませず、盗まず、淫らならず、邪義を説かず、ウソを言わず、悪口を言わず、無駄な事を言わず、酒を飲まないこととされている。そして、浄命だから、生活が整っていることも、大きな条件となっているようだ。
この結果、持戒をすれば、さらに仏道への縁がつながり、もし破戒をすれば、仏道から遠くなってしまう。拙僧は以前、或る記事で「持戒」の意義とは、戒を護るかどうかではなくて、仏道から遠くなるか近くなるかで考えるべきだとしたが、なるほど、龍樹菩薩の見解にもそれが見えた。
いわば、我々の内面的な問題として、どれだけ仏道に対し、真剣でいられるか、それが大きな要素である。その意味で、おそらくただ、外面的な問題に把われるのは、「下の持戒」として阿羅漢に止まり、「中の持戒」として辟支仏(声聞仏)に止まってしまう。
それでは、最上の持戒とは何か?!それは、衆生に対する慈愛の心を忘れず、衆生を涅槃に渡そうと願い、また戒の実相=空なる事実をよく弁えることになる。空であることを良く知っているからこそ、衆生を渡すことが可能となり、慈悲の心もまた、可能となってくる。
なお、心に依るどころ無く、こだわり無く、それをこそ「持戒」といい、さらにいえば、そのような把われ無さに住する持戒(という、かなり妙な状態?)を、龍樹菩薩は「無上仏道戒」とした。とらわれがないから、逆に何にでもなれるわけで、「こうありたい」と理想論でばかりモノを考えるのは、結局は「中下の持戒」に過ぎない。
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