そこで、今日はまず、以下の一節を見てみて、その後色々と考えてみたい。
禅宗に「自由な」と云ふ形容詞がある。例令へば仙厓和尚などの画でも見ると、「誠に自由なものぢや」と曰ふ。また白隠和尚などの古則公案を取扱はれる様子を見るとこれも「自由なものぢや」との評が下される。〈中略〉此自由と云ふこと、大に面白い。或は脱洒とも云ふ、つまり何等の「かかりかつぱ」がないとの義である。
先頃ふとしたことで、この「自由」を英語などに移すときは、どうしたら好いかと思うた。普通の場合ならfreedom形容詞でfreeとすることであらう。明治の始めlibertyやfreedomをどう和訳して可ならんかと、法律家や政治学者が苦心して、その結果「自由」と云ふ字を得たと云ふ話であるが、それは学術上の用語であつて、宗教上、又は精神上の文字と混一することが出来ぬ。禅宗の「自由」にもフリーの義は勿論あるが、何となくこれよりも深い意味が潜んでいるやうに思はれる。拘束ない処は自由で、又自在で、フリーであるが、予の考では、此「自由」を今少しく深く、さうして主観的に見ねばならぬと信ずる。そこで予はcreative又はoriginalと云ふ字を思ひついた。
鈴木大拙居士「自由とクリエテイヴ」、『禅の研究』(丙午出版社・1934年)164~165頁
「自由」を禅語としてどう受け止めていくかは、それ自体1つの公案であるように思う。実際に上記の一節も、大拙居士が「自由」をどう受け止めていくか検討した結果といえよう。通常であれば、脱洒や、拘束ない様子をもって「自由」とはいう。しかし、大拙居士は更にもっと深い意味があるとしつつ、主観的に見る必要を説き、「creative」の後を導いたのである。いうまでもなく、creativeは「創造的」の意味であるから、自己自身を含めて世界の諸事象を能動的に作り上げていく様子を示す。
そもそも、「自由」を開けば、「自ずから由る」ことである。その意味では、自由なる主体は、自己そのものに由っているのであって、他者に由っているのではない。その意味では、自己自身が自ずと自己自身と、この世界を作り上げているのである。そう思う時、拙僧が思い出すことがある。
われを排列しをきて尽界とせり、この尽界の頭頭物物を、時時なりと覰見すべし。
道元禅師『正法眼蔵』「有時」巻
道元禅師は、「われ」を排列して尽界(あらゆる世界)にするとしている。いわば、尽界の根底には「われ」が横たわっている。拙僧などはこれを読む度に、或る種の創造性を感じ取っている。無論、セム系一神教の神のように世界を作るのではない。ただ、世界とは何かといえば、それは自己とともに自己に対して現象しているのである。客観的にあり得ている世界が、自己に対して現象するのではなくて、自己とともに世界は自己に対して世界となる。
拙僧が思うところの「自由」とは、そのように世界の独立性などを判断停止できるか否かにかかっているように思うのである。そして、世界の独立性を判断停止し、自他一如として自己と世界とが働き行く姿こそが、自由としての創造性であろう。大拙居士の言葉から、今日はそのような自己と世界の様子を味わってみた。
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