つらつら日暮らし

大本山總持寺二祖・峨山韶碩禅師忌(令和6年度版)

10月20日は、大本山總持寺二祖・峨山韶碩禅師(1276~1366)の忌日となっている。

貞治四年小春の初、師、病に臥す、同二十日夜半、沐浴し畢て徒衆に垂範し、筆を索て遺偈を書て曰く、皮肉合成九十一年、夜半舊に依て身を黄泉に横う、筆を投て泊然として示寂す。
    『諸嶽二代峩山和尚行実』、『總持両祖行術録』15丁表~裏


本書は「貞治四年」説を採るのだが、『總持二代御喪記』を見ると、「貞治五年」となっており、現在は後者が主となっている。しかし、この日付は残されている。なお、『御喪記』では、この10月20日に因む日付で御葬儀が執行されているので、やはり「貞治五年十月二十日」なのである。以下、拙ブログでは伝記を学びつつ、顕彰してみたい。

  洞谷第四祖大雄菴開基總持二世峩山和尚伝
 峩山和尚、諱は紹碩。能州瓜生田邑の人、岡部氏六弥太の後胤なり。
 母、藤原氏、一日文殊大士に聖児を生むことを祈る。夜に、利剣を呑むを夢みる、便ち懐妊す。
 出誕後、其の英敏たること群童に類せず、其の貌、雄偉なり。
 十六歳の時、台山に薙染し、深く教乗を究む。
 後に瑩山和尚を加州大乗に謁し、便ち衣を更えて参侍し、歳を歴る。
 師、一日打坐す。瑾公、師の耳畔に於いて弾指すること一下す。師、忽然として大悟す。
 一日、瑾公問うて曰く、石の蛇を胎する時、如何。
 師云く、将謂すらくは石の蛇を胎す。今日、見来す蛇の石を胎するを〈洞谷の旧話なり〉。
 瑾公、許可す。
 然る後に遊方する年久しし。兵を避け、山市に晦蹟す。
 時に瑾公、洞谷に在りて化を煽る。師、随時して、会中に都寺に充つ。
 元亨元年十一月冬至の日、入室し秉払するなり。
 師、一日、覚明上座、灯台下に隠身の因縁を挙して、紹公に問う。
 公云く、我、你の為に地獄に入ること箭の如し。汝、亦た作麼生。
 師云く、眉鬚脱落を顧みず、云云。
 正中元年、瑾公、定賢律師の請に応じて、總持に在りて説法授戒す。便ち、席を師に継がせ、且つ、興聖の竹算・戒策を付す。即日晋院し普説す。
 暦応三年、洞谷に住し、勅を報じて仏舎利塔を修し、廊院を作る。
 貞治二年、再び洞谷に住し、同五年、總持に在りて偈を説き滅を示す。
 世寿九十一、嗣法の諸弟子、扶桑に弘化す。門徒、後に洞谷に塔を建て、大雄菴と曰う。洞谷の西北の隅、今、旧址存り〈元和二年に至りて大雄菴有り。洞谷と諸嶽との両山中に小径有り、俗に峨山路と曰う。今に至りて茅茨生えず。其の来往、而今、目中に在るが如きなり。普済和尚曰く、永平五代の的孫、洞谷四世の祖翁、興聖の竹算・戒策は永平伝来の道具なり。瑩山和尚、之を碩公に付す〉。
    『洞谷五祖行実』、『曹洞宗全書』「史伝(上)」巻・598頁上~下段、訓読は拙僧


以上である。そこで、気になったところを幾つか指摘しながら、拙僧なりに峨山禅師を顕彰したい。

まず、峨山禅師の出自であるが、この岡部氏六弥太については、岡部六弥太忠澄(?~1197)という人のことで、現在の埼玉県深谷市内にその墓所もあるという。平安時代から鎌倉時代にかけて活躍した武士とのこと。何故この人の名前が出ているのか?ちゃんと調べれば分かるだろうし、おそらく先行研究もあるだろうから詳論しないが、峨山禅師が武士階級の出身だった可能性のみ指摘しておきたい。

母親が文殊菩薩に願った件や、夢で利剣を呑んだことは、他の伝記にも見られる伝承である。

それから、16歳に比叡山(台山)で出家し、その後天台教学を学んだことも、良く知られたことであると思う。

その過程で瑩山禅師に参ずるようになり、曹洞宗に転じた。

それで、或る日、打坐していた峨山禅師の耳元で、瑩山禅師が弾指一下され、それで大悟した話については、他の伝承では、いわゆる「両箇の月」に因んだ接化として描かれていると思う。何故、上記史伝が、「両箇の月」を採用していないのかは不明。更に、瑩山禅師が峨山禅師を印可証明した際の公案として、「石胎蛇」の一則を使っている。この辺は『諸嶽開山二祖禅師行録』にも共通する。なお、多くの場合、先の「両箇の月」がそのまま、印可証明の発話になっている印象だ。近世の『日域洞上諸祖伝』『日本洞上聯灯録』などでは、この「石胎蛇」の一則は採用されていない。

ついでに、後に臨済宗法灯派となった出雲雲樹寺開山・孤峰覚明禅師との遣り取りも余り見たことがない。これもこのまま頂戴するしかないといえようか。

總持寺開山の話題について、上記内容だとまず改宗当初、瑩山禅師が先に説法・授戒などをしてから、峨山禅師に後を嗣がせた印象であるが、『洞谷記』では、改宗自体は瑩山禅師によるものだが、開堂時に峨山禅師に譲られ、説法・授戒は峨山禅師によるものとの印象を得る。なお、その最中に、總持寺には『大般若経』が搬入され、早速にその読誦が行われたが、瑩山禅師は同経の解題を担当されたという。よって、『洞谷五祖行実』の著者は、『洞谷記』は見ていないのだろうか?或いは大乗寺系と永光寺系とで伝承が異なっているのだろうか?時間があれば、先行研究なども見たのだが・・・

また、永光寺との兼務の件はこの通りであろう。最後に、峨山禅師の塔頭として「大雄菴」があったこと、更に「峨山道」についての言及があることなどが注目される。元和二年(1616)の一事として示されているので、江戸時代初期の伝承になるのだろうが、大変に興味深い。

しかし、拙僧がこの一節を採り上げようと思ったのは、峨山禅師への讃歎として、末尾に「嗣法の諸弟子、扶桑に弘化す」とあることに注目したためである。峨山禅師ご自身は、總持寺の住持を中心に、僅かに永光寺も兼務されたが、ほとんど北陸の地で、總持寺経営の安定化を目指しつつ、学人接化にご尽力なさった。そして、その門下が洞上の宗風を全国に弘めたのである。それを端的に示す先の一節こそ、峨山禅師の評価に最も相応しいと思う。

一末孫として峨山韶碩禅師のご功績を讃歎申し上げる次第である。

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