つらつら日暮らし

瑩山紹瑾禅師『洞谷記』「講戒略式」に見る「三宝」論

曹洞宗で太祖と仰ぐ瑩山紹瑾禅師(1264~1325)には、実質的な自叙伝などを含む『洞谷記』という文献が伝わるが、その流布本系統には「講戒略式」という一節が含まれている。この講戒とは、実質的な布薩になるのかな?そして、その中に懺悔・三帰・三聚浄戒と続き、最後に・・・何で「十善戒」になるのか分からないんだが、そのようになっている。なお、懺悔は「懺悔文」を読誦するだけなので、三帰以下を見ておきたい。

 須く仏法僧宝に帰依すべし、自覚朗然として、本より垢塵を離る。
 他覚本浄にして、念念別無し。自他和合し、能所隔てず。汝、我を喚びて答う、我、喚べば汝答う、谷神の応じて響くが如し、雲の行くは風に随うが如し。生仏一如にして、身心無二なり。是れ一体三宝なり。
 此の理を証得し、此の理を宣説し、此の理を修行す、是れ現前三宝なり。
 此の理を知らず、泥木是れ仏像なり。此の理顕れず、帋墨是れ経巻なり。此の理明かさず、剃髮染衣す。已に凡聖異なる。是れ住持三宝なり。
 三種に三無し、三宝一体、是れを帰依想と称す。
    『洞谷記』「講戒略式」


このように、瑩山禅師の「三宝」観は、「一体三宝・現前三宝・住持三宝」を基本としている。そうなると、ここの一節は、瑩山禅師も和訓を伝えたことで知られる、『仏祖正伝菩薩戒教授戒文』に共通している。

そこで、まず「一体三宝」については、「一如」「不二」の道理をよくよく自覚することを求めている。いわば、三宝一如としての一体三宝なのである。

そして、この道理を証得し、宣説し、修行することが「現前三宝」であるが、証得するのが仏陀か。宣説は説法なので法である。修行するのは僧だから、ここで三宝が揃うことになるし、実際にそのようにしているのであれば、現前三宝である。

ちょっと難しいのが「住持三宝」で、先に挙げた「一如」「不二」の道理を知らないとしても、泥木で出来た仏像は、仏宝だとしている。その道理が現れていないとしても、墨で書かれた経巻は法宝である。同じくこの道理を明らかにしていないとしても、剃髪し、染めた衣(袈裟)を着ているのであれば法宝である。凡夫のままで、聖人ではないとしても、「住持三宝」だとされるのである。

「一体三宝」「現前三宝」は、議論の余地は無いが「住持三宝」については良く分からないという人もいるかと思うので、次の一節を紹介しておきたい。

一日示に云く、人は必ず陰徳を修すべし。必ず冥加顕益有るなり。たとい泥木塑像の麁悪なりとも、仏像をば敬礼すべし。黄紙朱軸の荒品なりとも、経教をば帰敬すべし。破戒無慚の僧侶なりとも僧体をば信仰すべし。内心に信心をもて敬礼すれば、必ず顕福を蒙るなり。破戒無慚の僧なれば、疎相麁品の経なればとて、不信無礼なれば必ず罰を被るなり。
    『正法眼蔵随聞記』巻4


これは、道元禅師が宇治興聖寺におられた頃に、弟子たちに向けて示された教えだが、このように作られた仏像、書かれた経巻、破戒の僧侶でも、三宝帰依の対象としてあるとしたのである。そして、おそらくはこの教えを受けられたものと思われる。つまり、「住持」の方法とは、その形だけでも残れば良いという話なのである。

現前三宝だけが三宝では無い。

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