二律、并びに一切の犍度、調部、毘尼増一、都て集めて、毘尼蔵と為す。
『四分律』巻54
つまりは、「調部」というのは、『四分律』を構成する一部分を指している。そして、更に見ていくと、巻55~57が、「調部」第一~三となっている。よって、以下のようにも紹介される。
調部毘尼〈五十五、六、七、共に三巻〉。
霊芝元照『四分律行事鈔資持記』上一上「釈序題」
巻数を確認しただけである。それで、『四分律』の該当箇所を見ていくと、以下のような記述があることに気付く。
爾の時、世尊、毘舎離に在り。
時に優波離、即ち坐より起ちて、偏えに右肩を露わし、右膝を地に著けて、合掌して仏に白して言わく、「須提那・伽蘭陀子、与に二行の不浄行の故に、是れ波羅夷を犯すや不や」。
仏、言わく、「優波離、最初、未だ制戒せず、不犯なり」。
『四分律』巻55
このように、ブッダが戒律を定めた、その最初の段階に遡りつつ、或る比丘の行いが、波羅夷になるかどうかを吟味しているのである。そして、「調部」というのは、以下、或る比丘の行いが、罪を得るかどうかについて、細かく規定している。その中で、かなり気になる一節を見出した。
時に、豹の鹿を捉えること有り、鹿、瘡ついて、寺に来入して死す。諸もろの比丘、取りて食して、疑う。
仏、言わく、「無犯なり」。
『四分律』巻55
これは何かというと、「不偸盗戒」に因む教えであるが、ヒョウが鹿を捉えようとして、結局、傷ついた鹿が寺の中に入ってきて死んだのを見て、諸々の比丘が、その鹿を食べてしまった場合、律では、罪とはならないとしているのである。何故ならば、ヒョウは鹿を捉えきれず、その段階で、ヒョウのものではないからである。
時に祇桓を去ること遠からずして、猟師有り、機を安んじ鹿を捕らえんと発し、機中にて死鹿有り。六群比丘、盗心を以て取り、食して、疑う。
仏、言わく、「波羅夷なり」。
同上
こちらは、或る猟師がワナを仕掛けて鹿を捉えようとしたところ、鹿を捕まえ、鹿は死んでいた。その場に六群比丘が来て、その罠に捉えられた鹿を、盗心をもって取り、食べてしまった。これに対しては、律では「波羅夷」としているので、罪を得るのである。
時に比丘有り、昼日に阿蘭若処に往く。賊有りて牛を繋いだ樹在り、牛、比丘を見て泣涙す。比丘、慈念して便ち解放して去る。比丘、疑う。
仏、問うて言わく、「汝、何の心を以てするや」。
答えて言わく、「慈心を以てす、盗意無し」。
仏、言わく、「無犯なり。応に是の如き事を作さざるべし」。
同上
そして、微妙な感じになったのは、以上の教えなのだが、或る比丘が人里離れた場所へ修行に行こうとしていたら、或る賊が牛を樹に繋いでいた。牛が、比丘を見て盛んに泣く様子を見て、その比丘は慈悲の心でもって、牛を解放した。その後で、自分の行動が正しかったかどうかを、ブッダに尋ねたのである。
ブッダは、その比丘に対し、「どのような心でもって、その行為をしたのか?」と尋ねたところ、比丘は「(牛に対する)慈悲心です。盗むつもりはありませんでした」と答えた。するとブッダは、「罪を犯してはいない。しかし、今後はそういうことはしないことだ」と答えた。
一見して、動物愛護の観念などから、ブッダがこういう行為を推奨すると思っている人は、裏切られた感じを懐くかもしれない。しかし、ブッダが行為の善悪の基準を定める際に、世間の人々からどう思われるか、という「機嫌(譏嫌)」を重視する。この場合、賊が逆恨みして比丘を殺害するかもしれないし、ただ、盗まれたと思われるかもしれない。よって、ブッダは止めたのである。
結局、「調部」というのは、こういった律に関する、実際の持犯の諸規定を定めたものなのだが、本来、この辺は「経分別」で足りていたはずだが、改めて定められている。その理由について、先行研究などを見ると、どうも一度律が成立してから、教団内で問題になったことを新しい規範として、「調部」にまとめたとのことである。
よって、かなり細かく規定しているのは、それだけ、グレーゾーンのような問題が多々起きたためだと理解出来るのである。
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