つらつら日暮らし

「自羯磨」という言葉

既に、【自誓受戒】という言葉については、何度か拙ブログでも採り上げているけれども、それに関連した用語として、「自羯磨」という語句があるようなので、典拠を探ってみたい。

 十方の仏菩薩、諸大衆に告ぐ、「彼の世界、某甲、真実に菩薩戒を受けること有り。我れ今、已に施し、憐愍するが故に、今、此の人、師無ければ、我、為に師と作らん。我れ今、護念して、是れ我が法弟なり」。
 即ち起ちて十方の仏菩薩を礼し、是れを自羯磨と為す。
    『菩薩善戒経(優波離問菩薩受戒法)』


以上のように、「自羯磨」とは、菩薩戒を受ける際に、「師無ければ」、十方の仏菩薩が、師となってくれるという話であり、受者からすれば、ただ自らの願いと行いによって授かる性質のものであった。つまりは、「自誓受戒」と同じ機能を持っていたことが分かる。「羯磨」とは、複数の意義を持つようになった訳語(音写)ではあるが、その中に、受戒作法のことも含まれる。よって、自ら発し、自ら受ける作法としての「自羯磨」と定められる様子が理解されるのである。

ところで、「自誓受戒」といえば、『梵網経』『菩薩瓔珞本業経』、或いは『占察善悪業報経』などが典拠として理解されるところである。しかし、これらの経典は、中国成立という位置づけをされるものである。その点、『菩薩善戒経』は色々と書誌学上の問題があることは、既に【沖本克己先生「菩薩善戒経について」、『印度学仏教学研究』22巻1号・1973年】によって提示されているので、そちらをご覧いただければと思うのだが、とりあえずはインド成立と考えて良いということは分かる。

つまり、他の「自誓受戒」を示す文献よりも、早く「自羯磨」について言及している点に注意されるのである。

また、この経典は、他の菩薩戒思想の文献との関係も、先に挙げた先行研究では指摘しているが、「自羯磨」と同じような文脈が存在するのか、というと、弥勒菩薩から菩薩戒を受けたという考えがあることに注目される。或いは、瑜伽論系の文献は、「弥勒菩薩造」などとなっている。もちろん、これが、後に「弥勒如来」となる存在なのかどうか、当方には判断が出来ないのと、例えば夢中で弥勒菩薩から受戒することは、自誓受戒といえるのかどうか、微妙なところではある。

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