十月旦の上堂に云く、
開炉歳歳に是れ今朝なり。煖気潜かに通り我が曹と称す。
惜しむべし丹霞の木仏を焼くことを、翻じて院主をして眉毛を堕さしめんことを。
諸禅徳、
院主只だ飢え来たらば飯を喫することのみを知りて、且く許多般の事有ることを知らず。
丹霞只だ寒ければ即ち火に向かうことのみを知りて、亦た許多般の事有ることを知らず。
天童門下、忽ちに箇の漢有りて、恁麼に手を出し、恁麼に性燥たり。
也た与に劈脊便ち打す。甚麼と為てか此の如くなるや。
当に断ずべきを斷ぜざれば、反って其の乱を招く。
『宏智広録』巻4、原漢文
残念ながら、具体的な年次までは調べていないが、中国宋朝禅の宏智正覚禅師による旧暦10月1日の上堂である。なお、途中で「天童門下」と出ているので、既に天童山の住持であった頃のものであるとは分かる。
内容としては、開炉(ストーブの蓋を開き、活用し始めること)は毎年今朝に行われる。暖気が堂内を通り、自分の部屋であると称している。ただ、開炉をすれば良いだけなのだから、惜しむべきは丹霞天然が行った木仏を焼いたという故事である。その故事によって、丹霞に意見を言った院主は誤った見解を述べたことになってしまった。
そこで、諸禅徳よ、この件について理解しているだろうか。
院主は、ただ腹が空いたら飯を食べることだけを知って、丹霞の行いの中に多くのことがあることを知らなかった。また、丹霞は、ただ寒くなったら火に近づけば良いとだけ知って、その寒さの中に多くことがあることを知らなかった。
さて、この天童山の主である山僧の門下であれば、すぐに仏法の真実を明らかにしたものが出てきて、そのように手を出し、そのように騒ぎ立てるであろう。よって、その者のために、背骨をつんざくようにすぐに打つこととしよう。なぜそのようになすべきなのか?
それは、断つべき誤解を断たなければ、かえってそれによって混乱するからである、とでも出来ようか。
問題は、この「開炉」によって、我々が何を理解すべきか?ということである。もちろん、ここであっさりと答えを申し上げてはつまらないであろうから、実際にストーブを使うようになってから、それぞれに参究していただければと思う。
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