つらつら日暮らし

大河内翠山『古今史実美談叢書(第1集)』に見る精霊棚の成立について

これも、或る意味「裏盆」の記事になるのかもしれないが、気になる文脈を見出したので、検討しておきたい。

「さう怒るな、話しだからするのだ、七月に改めて霊棚を飾るといふのも間違つて居るな、貴様に此んなことを言つて聴かせても分るまいが、確か人皇六十何代の御宇であつたか、上には仏をお嫌ひ在せられ、有合せた仏具は皆な焼いておしまひ遊ばした。それが為めに世間も騒がしくなつた、ソコで人民から願ひ上げて、どうか一年に一度霊祭をいたしたい、切めて先祖祭りを一年に三日許して頂きたいとおふ願ひを上げた、それでも出来ぬとは仰せられない、三日許すといふことになつて、其日に先祖の祭りをすることになつたが、仏壇はなし、仏具を飾ることも出来ないから、仕方がない竹を立つて柱となし、真菰を敷いたり、間瀬垣を仕切にしたり、有合せの草花をそれへ供へて先祖祭りをしたのだ、処が段々智者が現れて、恐れ多くも上へ奏聞を遂げ、人民が仏事を捨てるやうなことでは相成りませぬからといつて、先の通りに家毎に仏壇を設け、朝夕之に向つて拝を遂げることになつたのであるから、何も七月十三日から改めて、あゝいふ霊棚を造らんでも宜いのだ」
    「盆と精霊棚」、大河内翠山『古今史実美談叢書(第1集)』(文教書院・大正12年)358~359頁、漢字は現在通用のものに改める


これは、前にアップした【裏盆に盂蘭盆の続きの話 「なすびの牛・キュウリの馬」について】でも採り上げた文献であるが、江戸時代初期の材木商・河村瑞軒(1618~1699)に因む物語で、「精霊棚」と「仏壇」の関係性について論じたものである。なお、前回の記事でも指摘したが、本書の書籍名は「史実美談」となっているものの、著者がいうように「新講談」という小説に近い扱いの文章らしく、史実とは認められないのである。

そこで、上記内容だが、日本に於いて「精霊棚」が作られた経緯を指摘している。時代的なヒントとしては、人皇六十何代とあるので、第60代・醍醐天皇から第69代・後朱雀天皇までの歴代天皇の御宇が想定されているといえよう。在位でいうと、897~1045年の間になる。ただし、正直なところ、藤原摂関政権の安定期であり、仏教への帰依も十分の時代であったと思われるので、本当に「上には仏をお嫌ひ在せられ」ということがあったのだろうか?

色々と調べてみたが、上記のような年代は、やはり仏教の信仰が皇室・貴族の間で一般化し、むしろ、事あるごとに仏教や寺院との関わりがあり、天皇が譲位後に出家し「法皇」となることも珍しくはなかった。

よって、上記の内容自体が、他に根拠のある文章とは思えず、ずいぶんと面白い説を打ち立てたものだ、という印象しかない。もちろん、他に何らかの根拠があれば、非常に興味深いのだが、ご存じの方がおられれば是非ご教示いただきたい。

そして、上記内容を見てみると、実は盂蘭盆会の精霊棚供養の否定となっている。それは、「先の通りに家毎に仏壇を設け、朝夕之に向つて拝を遂げることになつたのであるから、何も七月十三日から改めて、あゝいふ霊棚を造らんでも宜い」とあることからも、明らかであろう。つまり、仏壇を作って良いことになったので、精霊棚を限定的に作る必要が無いという意義なのだが、これも典拠不明。盂蘭盆会、或いは施食供養という観点からは、限定的な供養棚の設置が必要である。

その辺の都合を知らない人の見解かな?とも思った。

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