然灯仏、師子座に坐す。坐し已りて彼の衆生の為に説法す。いわゆる、布施の事、持戒の事、離欲の事を讃歎し、漏尽の法を得て、出家に於いて功徳の利、清浄法を助け、如来の此の閻浮提人と見ることを説く。
『仏本行集経』巻2「発心供養品中」
以上の通りである。まず、師子座というのは、仏陀が説法を行う場合に坐する場所のことであるが、そこに坐って衆生のために説法を始めた。説法した内容は、布施のこと、持戒のこと、離欲のことということで、全ては自己自身への執着を離れることを説いていることが分かる。
その結果、あらゆる煩悩を尽くすことを得るのである。
また、出家に於いてはその功徳を示し、清浄なる法をもってその修行を助け、また、そういう人をこそ、如来と見えることを示したのであった。
さて、出家功徳の価値について、上記一節だけでは分からないが、更に、以下の文章を見ておきたい。
阿難、我れ爾の時に於いて、空より下り、地に安立住す。然灯世尊仏の足を頂礼し、却って一面に住し、即ち此の念を生じ、「我れ今、然灯仏の辺に於いて出家を求索す」と。
即ち仏に白して言わく、「唯だ願くは世尊、我、出家し具足戒を受け、我の仏の辺に於いて修行・梵行することを聴したまえ」と。
仏、我に語りて言わく、「汝、摩那婆、今、正に是の時なり」と。即ち出家することを得て、鬚髪を剃除す。鬚髮を除き已れば、無量の諸天、我が髮を取りて、為に供養するが故に、十億の諸天、共に一髮を得る。
『仏本行集経』巻4「受決定記品下」
以上の通り、釈尊は初めての出家を、然灯仏前で行ったという。そして、興味深いのは、ここでの「功徳」は、釈尊が剃った髪を天部の神達が、皆で分施し、等しくその功徳を受けたことであろう。勿論これは、布施である。布施行を通して、早速に大きな功徳を得たのである。
このことは、思っていたような「出家功徳」では無いかもしれないが、出家に伴う功徳であったことは間違いない。それから、これは周囲の者の功徳であったが、出家した本人が得る功徳としては何があるのだろうか?多くの経論を見てみると、釈尊の語りでは、然灯仏の下では出家し、聞法することで、正法を護持したとある。
この辺は、『法華経』「如来寿量品」でも無ければ、正覚を得ることはまだ先の時代であるから、当然にそこまでを描くことは出来ない。だが、功徳は無くてはならない。そう考えるとき、正法を得るだとか、他の者が良い功徳を得たといったような表現に止まることは、当然といえるかもしれない。
釈尊であっても、特に後代の文献であれば、仏陀に至るまでの長大な道が続く。現代の我々が、幾ら焦ってみたところで、簡単に得られることは無い。まずは出家してみてからという謙虚さくらいは持っていたいものだ。
この記事を評価して下さった方は、にほんブログ村 仏教を1日1回押していただければ幸いです(反応が無い方は[Ctrl]キーを押しながら再度押していただければ幸いです)。
最近の「仏教・禅宗・曹洞宗」カテゴリーもっと見る
最近の記事
カテゴリー
バックナンバー
2016年
人気記事